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金の色の街かどへ

私の右手の薬指には金色が光っている。

細い指輪。
両側から両手でハートを支え、そのハートの上にはちいさな王冠がひとつ。

クラダリング。

それをはじめて身につけた日から、今日で二十六年目を迎えた。





Breakfast on the bed !

ときどき、そんな声をあげながらホストマザーが寝室に飛び込んでくることがあった。パンケーキと紅茶が乗ったトレイを両手にして。
朝の九時まえ。どんなにベッドでぐずぐずとしていても、マザーの乱入とパンケーキの香りで目がぱっちりさめないためしがなかった。

その日も慌てて上半身を起こすと、マザーは私の毛布の上にトレイを置くまえに、身をかがめて、キスをひとつ、くれた。

「お誕生日おめでとう」

ありがとう、と返すよりも早く、マザーはトレイを私に預けて身をひるがえした。
そして手際よくさっとカーテンを開け放った。

「悪くないお天気よ」

私は目を細めて、マザーの肩ごしに、空もようを仰いだ。
相変わらずくもってはいるけれども、ちょっとだけ陽がそそいでいる。雨が降る様子はなさそうだった。

いつもの、冬の一日。ただし、年のさいごの一日。

「ゆっくり食べて降りてきなさいね」

マザーはそれだけ言うと、私とは違ってこまこまと忙しそうな足どりで部屋から出ていった。

大みそかには洗濯はしないものよ。
ゆうべ、マザーは編みものをしながら話してくれた。
昔からの言い伝え。大みそかに洗濯をすると、翌年は洗いものばかりの年になってしまうのだという。
だから洗濯はすべて三十日までに終わらせておいて、新年になるまで、一日ぶん、どんなに汚れていても、そのままためておくのだそうだ。

マザーは家事をしっかりとこなすひとだった。
掃除や料理はもちろん、洗濯も。下着にさえアイロンをかけるくらい、徹底していた。

そんなマザーのもとで、だから、私はずいぶん甘やかされていたと思う。

バターとはシロップがたっぷりかかっているあたたかいパンケーキをベッドの上で切り分けながら、こういうことをしてくれるくらいだもんなあ、そう、当時でさえ実感していたくらいだった。
本当は、今日ぐらいはマザーとファザーと一緒に朝食をとりたかったな。
それならば早起きすれば良かっただけなのに、私はどこまでもわがままだった。
その日で十八歳になるというのに。





パンケーキを食べ終え、身じたくを整えてから、もう一度、窓辺に寄って外を見た。
あれから三十分もたっていない。空に変わりはなかった。

窓からは、住んでいる街の一角がうかがえる。

裏口から通じる坂を降りていくと、バス停。その道路を渡ったところにポスト。
角を左に曲がるとフィッシュアンドチップスのお店があった。
右へ行けば、銀行やお店が並ぶにぎやかなほうへ出る。

もうすっかりなじんだ街。
だけど、さすがに今日は静かだ。
工場ももうお休みなのだろう。いつもそこはかとなく耳に届く機械音もなりをひそめていた。

バスが止まった。
何人か、列を守って順番に乗っていく。ターミナルからそんなに離れていないせいか、ここで降りるひとを、そういえば見たことがない。
窓のつらなりの下に黄色い看板を貼りつけた、赤いバス。
今日が大みそかでも関係ない、もうクリスマスはおわったんだから、そう言いたげに、いつもどおり、ひとを呑みこんでドアを閉め、決まった道にむかってまた走っていった。





下へ降りていくと、リビングではファザーがソファに座って新聞を読んでいた。

「やあ、誕生日おめでとう」

こちらが、おはよう、と言うすきはなかった。こんなところはマザーと似ている気がした。
ありがとう、と答えてから、私はちょっとあたりを見まわした。

「彼女なら買いものに行ったよ」

新聞をたたみながらファザーがそう教えてくれた。私はちょっとおどろいた。

「もう?いつもより早いね」
「午後はのんびりしたいみたいでね。郵便局にも用があるとかで」

なるほど、と思った。
郵便局は街のはしっこにあった。家から歩いていくと、ちょっと遠く感じる。
それに、街にひとつしかない郵便局はいつも混みあっていた。列を区切る黒いロープが不要になったことがないくらいに。

「それで、彼女からも言われてることがあるんだけど」

ファザーの新聞のしまつは、そんなにていねいではない。
端がずれたままのそれをわきに置いて、改めて私を見上げた。

「何かほしいもの、あるかい?」

意味を理解するまで、三秒ぐらいかかったと思う。

誕生日プレゼントをまったく期待していないと言ったら嘘になる。
でも、クリスマスが終わったばかりだし、朝はパンケーキを食べさせてくれたし、何より、お世話になっている、いそうろうなんだし。

そう聞かれても、困るしかなかった。
そんな、もらえません、なんて、いかにも日本人らしいことを言ったら、かえって失礼なんじゃないか。
それにしたって、サプライズというか、用意されているわけじゃないのか。
おかげで、私はますますどう答えたら良いか、わからなかった。
突っ立ったまま何か言おうとしては口を閉じ、ただただ戸惑っていると、おかしそうにファザーは笑った。

「誕生日なんだから当たり前だろう、プレゼントをもらうのは」
「でも」
「とりあえず、街へ行こうか」

私はきょとんとした。
ファザーはさっさと立ち上がり、階段下の小部屋からコートを私のぶんも取り出してきた。

「思いつかないなら、街で探して見つけたら、それにしよう。でも豪邸は買ってあげられないよ。だからその界隈は避けて行こう」





ファザーとふたりで出かけることは、あまりなかった。

たまに、今夜のサッカーは特別なやつなんだ、そう耳うちをされたら、私がマザーにおねだりする手はずになっていた。
パブでサッカー観戦したいの、ファザーに連れて行ってもらっていい?
マザーはそんな段どりはお見とおしだったろうけれども、ちらっとファザーをにらむだけで、しょうがないわね、飲み過ぎないように、ふたりともね、と、最後だけはっきり強調しつつお許しをもらえていた。
私はイギリスでは飲酒年齢に達していたものの、たいていはコーラを飲んでいた。
ファザーはもちろん、一パイントのビールを何度かおかわり。
パブでの友人たちといっしょになって、サッカーの試合が繰り広げられている画面に向かって、どんなに夢中になっても、他のひとみたいに野次は飛ばさずに。

ファザーとの外出といったらそれぐらいしかなかった。
だから、街へ、というのは、ほんとうに思いがけないことだった。





イギリスの街はたぶんどこでも、夕方の五時になると、いっせいに静まりかえる。
ホストファミリーの家には電話がなかった。
私が日本に連絡を取らなければならないときは、時差を計算し、だいたい五時以降に公衆電話まで出かけることが多かった。

シャッターがすべて降りた暗がりの街に、おかげで私はなじんでいたが、昼間の街を知らなかったわけではもちろんない。

学校の帰りに寄って駄菓子を買うスタンド、クリスマスシーズンに通ったカード専門店、ピーナッツの本が見つかる古書店。
カフェ。美容院。教会。銀行。ベンチ。

何がどこにあるかは、ちゃんとわかっていた。





大みそかでも、街はそこそこにぎわっていた。
ほとんどのひとが、買いもの用のカートをひいている。日本のような年末年始を送るわけではないけれども、あるていど、買いだめをしておくのだろうと想像した。

でも、自分の誕生日プレゼントは、なかなか思いつかなかった。

メインストリートには服屋もあった。でもファザーと入っていくのはちょっとためらわれたし、服ならクリスマスにプレゼントでもらったばかりだ。

あと半年ほどで日本に帰ることを考えると、壊れやすいものや、大きいものや、重いものは、あとあと困るだろう。
かといって本だと、なんというか、プレゼントとしては安すぎる気がする。

歩きながら、ううん、と考えこんでいると、となりからファザーが茶化してきた。

「君ぐらいの年ならいくらだってほしいもの、あるだろうに。それとも良い子のふり作戦かな」

ここが日本なら、と思った。

日本だったら、たぶん、ほしいものなんて、数え切れないほどあっただろう。たとえ遠慮はしても、いくらでも欲ばりになれただろう。
けれど、今は難しかった。
帰国のことを頭においてのプレゼント選びは、ちょっとつらいことでもあった。

何か、特別なものがいい。
特別だけど、普段も使えるもの。ずっといっしょにいられるもの。
日本に帰っても、何年たっても、手放さずにいられるもの。
またイギリスに来るとき、つれてこられるもの。

肉屋を通り過ぎ、なだらかな坂道の途中まで来たところで、あ、と思わず声をあげた。

ジュエリーショップ。

いつの間にか私の足は勝手に立ちどまっていた。
ファザーが私の視線を追って、金銀できらきらしているショウウィンドウをのぞきこんだ。

「指輪」

私はひとこと、呟いてから、首を上むけてファザーを見た。

「指輪がほしい。ほら、あの、ハートで、王冠のやつ」

ファザーは私のほうに目をよこして、

「クラダリングのこと?」
「そういう名前なの?」
「ああいうのだよね」

太めの指が、ガラスのむこうを示した。

そう、それだった。

そこに飾られていることに、私は気づいていなかった。





学校で、いつも同じアクセサリーをまとっている女の子たちをよく見かけていた。
それは十字架のネックレスであったり、シンプルなピアスであったり、あの指輪であったり。
きっと特別なものなのだろうけれど、普段から肌身はなさず、といった感じがしていた。

日本人なら服にあわせてピアスもネックレスも選ぶのに、イギリスではそうではなかった。

大切なものだからこそ、いつも。

そんな印象が、私にはあった。





ファザーに促されて、お店に入った。
クラダリングを、ファザーがそう伝えたら、女性の店員さんはちらと私を見てから、とくだん愛想よくもせずに、てきぱきといくつかリングをカウンターに並べてくれた。

同じデザインでも、ちょっとずつ違いがあった。

さいしょは、いちばんきゃしゃなものを試してみた。が、ちょっときつすぎた。
それはベビー用です、そう店員さんが言うと、ファザーが吹き出した。さすがに、それはね。

次に私が選んで、右手の薬指にはめてみたものは、ほんのちょっとだけサイズが大きめだった。

指と輪の間にすきまができる。

けれど、他のどのデザインよりも、それがいちばん単純そうで、他愛なくて、綺麗だった。

「これにします」
「ちょっと大きいみたいですが」
「太ります」

店員さんはそこでわずかにくすりと表情をゆるめ、ファザーのほうを向いた。
ファザーは肩をすくめて、彼女が良いって言うんだから、と応じつつ、店員さんとうなずきあった。

包みますかと聞かれたので、このままつけていきます、そう答えたとたん、ファザーが、

「決まったね。じゃあ君はあっちを見ていて」

ああ、と思った。
お金。いったい、いくらなんだろう。値札がついていないので、わからなかった。
私がまたまごつきはじめると、ファザーは片手をあげて、私の両目をてのひらで覆った。

「このままじゃプレゼントをあげられないよ。わかったら、よそを向いてなさい」

私は何度も首を上下させてから、気まずくも背中をむけた。
それでも、ファザーが早口で店員さんとやりとりをしているあいだ、私はもう、自分の指で輝く金の光を、じっと見つめていた。





また街を通りぬけ、パブのまえで立ちどまりかけたファザーを、マザーがもう帰ってるかも、と急かして家路をまっすぐ辿った。
バス停わきの小道をのぼり、裏口にまわると、窓のこちらから、台所で野菜か何かを冷蔵庫にしまっているマザーの姿がちゃんと見えた。

ドアを開けるのと、マザーが振り返るのとは、ほとんど同時だった。

「プレゼント、決まった?」

ことばで答えるかわりに、右手をかかげて見せた。

マザーはそれを見て、そして目線を下へとおろしていって、コートからはみ出ていたシャツの裾を眺めた。
クリスマスにもらった、ネルのシャツ。
マザーが微笑んだ。

「素敵。良いものを選んだのね」

ファザーがうしろから、マザーがまえから、ぎゅうっと抱きしめてくれた。

誕生日、おめでとう。





あのときから、私の右手の薬指には、ずうっとその金色が光っている。

必要があってはずしたのは、ほんの数回だ。

仕事で悩んでいたらやせすぎてしまって、手を下むけただけで指輪がすとんと床に落ちたとき。
サイズを直すためにと、宝飾店に一週間ほどあずけた。

逆に、いろんなことがうまく行かず、急激に太ってしまったとき。
一時的に小指にうつした。そのまえに、別の宝飾店で、オイルを使って無理やりに引き抜かなければならなかった。

どちらの場合でも、無意識に、手の内側、親指で薬指をなぞるたび、ああ、今、そこにないんだった、そう気づかされてばかりいた。

指輪は、そんなふうに、私がどうであるかを知る目安になってくれている。

今はちょっと体重が落ちて、ゆるめになっている。
でも第二関節でとまるようになっているから、なくすことはない。

ただ、くるくると気ままにまわって、クラダリングの象徴が内側にかくれてしまい、外側から見えなくなることはしょっちゅうだ。





クラダリング。

ハートは愛情を、王冠は忠誠を、手は友情をあらわしているという。

それを右手の薬指へと贈ってもらって、今年で、きょう、この日で、二十六年目。

日本にいるあいだも、イギリスを旅するときも。
平穏な日常も、不安な夜も。
さよならを言わなければならなかった瞬間も、再会したドアの前でも。
あの晩、年明けのカウントダウンをして、リビングで踊りながら三人でキスをかわした数分も、今、こうしてあたたかい猫を膝にひとり文字を打っていくあいだにも。

私の右手の薬指には、いつでも金の色がひっそりと輝いていて、私の道ゆきにあかりをともしてくれている。








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