金の色の街かどへ
私の右手の薬指には金色が光っている。
細い指輪。
両側から両手でハートを支え、そのハートの上にはちいさな王冠がひとつ。
クラダリング。
それをはじめて身につけた日から、今日で二十六年目を迎えた。
*
Breakfast on the bed !
ときどき、そんな声をあげながらホストマザーが寝室に飛び込んでくることがあった。パンケーキと紅茶が乗ったトレイを両手にして。
朝の九時まえ。どんなにベッドでぐずぐずとしていても、マザーの乱入とパンケーキの香りで目がぱっちりさめないためしがなかった。
その日も慌てて上半身を起こすと、マザーは私の毛布の上にトレイを置くまえに、身をかがめて、キスをひとつ、くれた。
「お誕生日おめでとう」
ありがとう、と返すよりも早く、マザーはトレイを私に預けて身をひるがえした。
そして手際よくさっとカーテンを開け放った。
「悪くないお天気よ」
私は目を細めて、マザーの肩ごしに、空もようを仰いだ。
相変わらずくもってはいるけれども、ちょっとだけ陽がそそいでいる。雨が降る様子はなさそうだった。
いつもの、冬の一日。ただし、年のさいごの一日。
「ゆっくり食べて降りてきなさいね」
マザーはそれだけ言うと、私とは違ってこまこまと忙しそうな足どりで部屋から出ていった。
大みそかには洗濯はしないものよ。
ゆうべ、マザーは編みものをしながら話してくれた。
昔からの言い伝え。大みそかに洗濯をすると、翌年は洗いものばかりの年になってしまうのだという。
だから洗濯はすべて三十日までに終わらせておいて、新年になるまで、一日ぶん、どんなに汚れていても、そのままためておくのだそうだ。
マザーは家事をしっかりとこなすひとだった。
掃除や料理はもちろん、洗濯も。下着にさえアイロンをかけるくらい、徹底していた。
そんなマザーのもとで、だから、私はずいぶん甘やかされていたと思う。
バターとはシロップがたっぷりかかっているあたたかいパンケーキをベッドの上で切り分けながら、こういうことをしてくれるくらいだもんなあ、そう、当時でさえ実感していたくらいだった。
本当は、今日ぐらいはマザーとファザーと一緒に朝食をとりたかったな。
それならば早起きすれば良かっただけなのに、私はどこまでもわがままだった。
その日で十八歳になるというのに。
*
パンケーキを食べ終え、身じたくを整えてから、もう一度、窓辺に寄って外を見た。
あれから三十分もたっていない。空に変わりはなかった。
窓からは、住んでいる街の一角がうかがえる。
裏口から通じる坂を降りていくと、バス停。その道路を渡ったところにポスト。
角を左に曲がるとフィッシュアンドチップスのお店があった。
右へ行けば、銀行やお店が並ぶにぎやかなほうへ出る。
もうすっかりなじんだ街。
だけど、さすがに今日は静かだ。
工場ももうお休みなのだろう。いつもそこはかとなく耳に届く機械音もなりをひそめていた。
バスが止まった。
何人か、列を守って順番に乗っていく。ターミナルからそんなに離れていないせいか、ここで降りるひとを、そういえば見たことがない。
窓のつらなりの下に黄色い看板を貼りつけた、赤いバス。
今日が大みそかでも関係ない、もうクリスマスはおわったんだから、そう言いたげに、いつもどおり、ひとを呑みこんでドアを閉め、決まった道にむかってまた走っていった。
*
下へ降りていくと、リビングではファザーがソファに座って新聞を読んでいた。
「やあ、誕生日おめでとう」
こちらが、おはよう、と言うすきはなかった。こんなところはマザーと似ている気がした。
ありがとう、と答えてから、私はちょっとあたりを見まわした。
「彼女なら買いものに行ったよ」
新聞をたたみながらファザーがそう教えてくれた。私はちょっとおどろいた。
「もう?いつもより早いね」
「午後はのんびりしたいみたいでね。郵便局にも用があるとかで」
なるほど、と思った。
郵便局は街のはしっこにあった。家から歩いていくと、ちょっと遠く感じる。
それに、街にひとつしかない郵便局はいつも混みあっていた。列を区切る黒いロープが不要になったことがないくらいに。
「それで、彼女からも言われてることがあるんだけど」
ファザーの新聞のしまつは、そんなにていねいではない。
端がずれたままのそれをわきに置いて、改めて私を見上げた。
「何かほしいもの、あるかい?」
意味を理解するまで、三秒ぐらいかかったと思う。
誕生日プレゼントをまったく期待していないと言ったら嘘になる。
でも、クリスマスが終わったばかりだし、朝はパンケーキを食べさせてくれたし、何より、お世話になっている、いそうろうなんだし。
そう聞かれても、困るしかなかった。
そんな、もらえません、なんて、いかにも日本人らしいことを言ったら、かえって失礼なんじゃないか。
それにしたって、サプライズというか、用意されているわけじゃないのか。
おかげで、私はますますどう答えたら良いか、わからなかった。
突っ立ったまま何か言おうとしては口を閉じ、ただただ戸惑っていると、おかしそうにファザーは笑った。
「誕生日なんだから当たり前だろう、プレゼントをもらうのは」
「でも」
「とりあえず、街へ行こうか」
私はきょとんとした。
ファザーはさっさと立ち上がり、階段下の小部屋からコートを私のぶんも取り出してきた。
「思いつかないなら、街で探して見つけたら、それにしよう。でも豪邸は買ってあげられないよ。だからその界隈は避けて行こう」
*
ファザーとふたりで出かけることは、あまりなかった。
たまに、今夜のサッカーは特別なやつなんだ、そう耳うちをされたら、私がマザーにおねだりする手はずになっていた。
パブでサッカー観戦したいの、ファザーに連れて行ってもらっていい?
マザーはそんな段どりはお見とおしだったろうけれども、ちらっとファザーをにらむだけで、しょうがないわね、飲み過ぎないように、ふたりともね、と、最後だけはっきり強調しつつお許しをもらえていた。
私はイギリスでは飲酒年齢に達していたものの、たいていはコーラを飲んでいた。
ファザーはもちろん、一パイントのビールを何度かおかわり。
パブでの友人たちといっしょになって、サッカーの試合が繰り広げられている画面に向かって、どんなに夢中になっても、他のひとみたいに野次は飛ばさずに。
ファザーとの外出といったらそれぐらいしかなかった。
だから、街へ、というのは、ほんとうに思いがけないことだった。
*
イギリスの街はたぶんどこでも、夕方の五時になると、いっせいに静まりかえる。
ホストファミリーの家には電話がなかった。
私が日本に連絡を取らなければならないときは、時差を計算し、だいたい五時以降に公衆電話まで出かけることが多かった。
シャッターがすべて降りた暗がりの街に、おかげで私はなじんでいたが、昼間の街を知らなかったわけではもちろんない。
学校の帰りに寄って駄菓子を買うスタンド、クリスマスシーズンに通ったカード専門店、ピーナッツの本が見つかる古書店。
カフェ。美容院。教会。銀行。ベンチ。
何がどこにあるかは、ちゃんとわかっていた。
*
大みそかでも、街はそこそこにぎわっていた。
ほとんどのひとが、買いもの用のカートをひいている。日本のような年末年始を送るわけではないけれども、あるていど、買いだめをしておくのだろうと想像した。
でも、自分の誕生日プレゼントは、なかなか思いつかなかった。
メインストリートには服屋もあった。でもファザーと入っていくのはちょっとためらわれたし、服ならクリスマスにプレゼントでもらったばかりだ。
あと半年ほどで日本に帰ることを考えると、壊れやすいものや、大きいものや、重いものは、あとあと困るだろう。
かといって本だと、なんというか、プレゼントとしては安すぎる気がする。
歩きながら、ううん、と考えこんでいると、となりからファザーが茶化してきた。
「君ぐらいの年ならいくらだってほしいもの、あるだろうに。それとも良い子のふり作戦かな」
ここが日本なら、と思った。
日本だったら、たぶん、ほしいものなんて、数え切れないほどあっただろう。たとえ遠慮はしても、いくらでも欲ばりになれただろう。
けれど、今は難しかった。
帰国のことを頭においてのプレゼント選びは、ちょっとつらいことでもあった。
何か、特別なものがいい。
特別だけど、普段も使えるもの。ずっといっしょにいられるもの。
日本に帰っても、何年たっても、手放さずにいられるもの。
またイギリスに来るとき、つれてこられるもの。
肉屋を通り過ぎ、なだらかな坂道の途中まで来たところで、あ、と思わず声をあげた。
ジュエリーショップ。
いつの間にか私の足は勝手に立ちどまっていた。
ファザーが私の視線を追って、金銀できらきらしているショウウィンドウをのぞきこんだ。
「指輪」
私はひとこと、呟いてから、首を上むけてファザーを見た。
「指輪がほしい。ほら、あの、ハートで、王冠のやつ」
ファザーは私のほうに目をよこして、
「クラダリングのこと?」
「そういう名前なの?」
「ああいうのだよね」
太めの指が、ガラスのむこうを示した。
そう、それだった。
そこに飾られていることに、私は気づいていなかった。
*
学校で、いつも同じアクセサリーをまとっている女の子たちをよく見かけていた。
それは十字架のネックレスであったり、シンプルなピアスであったり、あの指輪であったり。
きっと特別なものなのだろうけれど、普段から肌身はなさず、といった感じがしていた。
日本人なら服にあわせてピアスもネックレスも選ぶのに、イギリスではそうではなかった。
大切なものだからこそ、いつも。
そんな印象が、私にはあった。
*
ファザーに促されて、お店に入った。
クラダリングを、ファザーがそう伝えたら、女性の店員さんはちらと私を見てから、とくだん愛想よくもせずに、てきぱきといくつかリングをカウンターに並べてくれた。
同じデザインでも、ちょっとずつ違いがあった。
さいしょは、いちばんきゃしゃなものを試してみた。が、ちょっときつすぎた。
それはベビー用です、そう店員さんが言うと、ファザーが吹き出した。さすがに、それはね。
次に私が選んで、右手の薬指にはめてみたものは、ほんのちょっとだけサイズが大きめだった。
指と輪の間にすきまができる。
けれど、他のどのデザインよりも、それがいちばん単純そうで、他愛なくて、綺麗だった。
「これにします」
「ちょっと大きいみたいですが」
「太ります」
店員さんはそこでわずかにくすりと表情をゆるめ、ファザーのほうを向いた。
ファザーは肩をすくめて、彼女が良いって言うんだから、と応じつつ、店員さんとうなずきあった。
包みますかと聞かれたので、このままつけていきます、そう答えたとたん、ファザーが、
「決まったね。じゃあ君はあっちを見ていて」
ああ、と思った。
お金。いったい、いくらなんだろう。値札がついていないので、わからなかった。
私がまたまごつきはじめると、ファザーは片手をあげて、私の両目をてのひらで覆った。
「このままじゃプレゼントをあげられないよ。わかったら、よそを向いてなさい」
私は何度も首を上下させてから、気まずくも背中をむけた。
それでも、ファザーが早口で店員さんとやりとりをしているあいだ、私はもう、自分の指で輝く金の光を、じっと見つめていた。
*
また街を通りぬけ、パブのまえで立ちどまりかけたファザーを、マザーがもう帰ってるかも、と急かして家路をまっすぐ辿った。
バス停わきの小道をのぼり、裏口にまわると、窓のこちらから、台所で野菜か何かを冷蔵庫にしまっているマザーの姿がちゃんと見えた。
ドアを開けるのと、マザーが振り返るのとは、ほとんど同時だった。
「プレゼント、決まった?」
ことばで答えるかわりに、右手をかかげて見せた。
マザーはそれを見て、そして目線を下へとおろしていって、コートからはみ出ていたシャツの裾を眺めた。
クリスマスにもらった、ネルのシャツ。
マザーが微笑んだ。
「素敵。良いものを選んだのね」
ファザーがうしろから、マザーがまえから、ぎゅうっと抱きしめてくれた。
誕生日、おめでとう。
*
あのときから、私の右手の薬指には、ずうっとその金色が光っている。
必要があってはずしたのは、ほんの数回だ。
仕事で悩んでいたらやせすぎてしまって、手を下むけただけで指輪がすとんと床に落ちたとき。
サイズを直すためにと、宝飾店に一週間ほどあずけた。
逆に、いろんなことがうまく行かず、急激に太ってしまったとき。
一時的に小指にうつした。そのまえに、別の宝飾店で、オイルを使って無理やりに引き抜かなければならなかった。
どちらの場合でも、無意識に、手の内側、親指で薬指をなぞるたび、ああ、今、そこにないんだった、そう気づかされてばかりいた。
指輪は、そんなふうに、私がどうであるかを知る目安になってくれている。
今はちょっと体重が落ちて、ゆるめになっている。
でも第二関節でとまるようになっているから、なくすことはない。
ただ、くるくると気ままにまわって、クラダリングの象徴が内側にかくれてしまい、外側から見えなくなることはしょっちゅうだ。
*
クラダリング。
ハートは愛情を、王冠は忠誠を、手は友情をあらわしているという。
それを右手の薬指へと贈ってもらって、今年で、きょう、この日で、二十六年目。
日本にいるあいだも、イギリスを旅するときも。
平穏な日常も、不安な夜も。
さよならを言わなければならなかった瞬間も、再会したドアの前でも。
あの晩、年明けのカウントダウンをして、リビングで踊りながら三人でキスをかわした数分も、今、こうしてあたたかい猫を膝にひとり文字を打っていくあいだにも。
私の右手の薬指には、いつでも金の色がひっそりと輝いていて、私の道ゆきにあかりをともしてくれている。