はじまりの丘
ようやく登りつめたころには、あたりはもうすっかり暗闇に包まれていた。
冬の雨が冷たく降りそそいできた。傘なんて持っていない。
あかりひとつない中でもどうにかうっすら見えた革靴は泥だらけで、もう寿命だなと思った。
それでも私の足はちゃんと丘に立っていた。
顔を上げた。
海が見えるはずだった。黒いペンで塗りつぶしたようなあれが、海だろうか。
案じながら首をめぐらせたら、遠くにもう一つ、崖のようなかたまりが目に入った。
ああ、しまった、と歯ぎしりをしても、もう遅い。
そうだった。この街には丘が二つあったんだった。西と東に。
私がいたのは、たぶんあっちだ。
ベンチがあって、アイスクリームが売っていて、古城もある。あの丘は、あっちだ。
でも、と思いなおした。
ここだって丘だ。
いったいどうやって辿りついたのかわからない。気づいたら坂がどんどん急になっていた。
二月の風にさらされても震えても、そこに行けると信じきっていた丘だ。
ヘイスティングスの丘。
ひとつ息をつき、私は目を閉じた。
*
丘は、青々とした芝生に覆われている。
よく晴れた、夏の日。私は穏やかに凪ぐ海を見おろしながら、一〇六六年のできごとを話をしていた。
ノルマン・コンクエスト。
その時代には、今日みたいな天気だったなら、海の彼方にフランスの陸地がぼんやり臨めたらしい。
船が軍団になってざあざあ渡り、この南イングランドの地、ヘイスティングスに降り立つ。
ノルマン公はイングランドの王位に、どうにか縁のあるひとだった。
まだ即位して間もないハロルド二世から玉座を奪おうと攻め入り、戦いの末に、ハロルドの軍を破って願いどおりにイングランドの王冠を手に入れた。
ウィリアム一世。征服王とも呼ばれるこの王から、イギリスの歴史ははじまる。
「じゃあ、それまでイギリスは、なかったの?」
芝生にじかに座ったまま聞かれた。ジーンズを通してもちょっと肌がちくちくした。
「まだ小国に分かれてたのをウィリアムが統一したんだよ」
「小国?スコットランドみたいな?」
「うーん、まあそんな感じかな。アイルランドは独立したし」
「あ、だからアイルランドは二つあるのか。北のと、別のと」
彼女はその長い名前をそらで口にしていった。
The United Kingdom of Great Britain and Nothern Ireland.
うなずいて、ロンドン塔もその人が作りはじめたんだよと言うと、彼女は驚いたような表情になった。
「ずっとここにいたわけじゃないんだね。やっぱりロンドンのほうが良かったの?」
「うん。その時代にもうロンドンが王都だったし、ここだと自分がフランスから襲われるかもしれないから」
「ああ、なるほど。何か、すごく当たり前なのに言われないと気づかないなあ」
「気づけるようなひとだから勝ったんだろうね」
彼女はまた、なるほど、とうなってから、ぱたんと芝生の上に寝ころんだ。
「歴史って面白いね。そうかあ、ヘイスティングス。ここがはじまりかあ」
ここ、と彼女の手が丘の地面をたたいた。芝生のかけらがふわっと舞った。あおい匂いが鼻をかすめた。
一年間のイギリス留学。その最初の一ヶ月は、日本人だけでの研修生活にあてられていた。
主に語学のレッスンを受けるかたわら、たまに遠足に出ることがあった。
来週は、ヘイスティングスへ行きます。
そう告げられたとき、私はどきっとした。
ヘイスティングス。
あのはじまりの地へ、行ける。
私の留学の目的は英語よりも、歴史だった。
「歴史の作家さんになるの?」
彼女は研修で仲よくなった子だった。
ホームステイ先はもうとっくに決まっていた。オックスフォードだと聞いて、単純にうらやましがっていた。
私の行き先は、まだ見つかっていなかった。研修ももう終わりかけているというのに。
芝生をむしりながら、ちょっと答えに迷った。
「どうかなあ。ファンタジーにアレンジできたらとは思うけど」
漠然と、それだけ言ってから、自虐で取り繕おうとした。
「でも変だよね。英語の国に来て、日本語で話を書きたいとか。しかも歴史をやりたいとか。作家になりたいとか」
なんで?
彼女の疑問は素早かった。
ウィリアムの行軍の速度ときたら、それはそれはたいしたものだったと、どこかで読んだことを思い出した。
「自分が持っているものを全部、夢に生かそうとするの、すごいし強いと思うよ。私は読んでみたいな、あなたの話」
私は彼女のようには即答できなかった。でも、また、どきりと胸が高鳴るのを感じていた。
みゃうみゃうと海のほうから聞こえてくる。海鳥たちのちいさなつぶが遠い視界にちらばっている。
ありがとう。いつか、読んでね。
思いきってことばにして伝えたあと、なんとなくお互いに黙りこんだ。
集合の声がかかるまで、そうやって私たちは、ただ丘にいて、たぶん、無言でこれからのことをこころに描いていた。
*
まぶたを上げたとき、私は闇の丘でひとり佇んでいた。
はじまりの地。
はじまりっていったい何だろう。
あのとき、いろいろなことがはじまると思った。
でも現実はそんなに都合よくできていなかった。
物語を書くことはもう何年もしないまま仕事につき、それにすら疲れてしまって、上司から突然に休暇を言い渡されたとたん、逃げるようにしてイギリスへと戻ってきた。
たった四日の旅。
あの丘に行きたかったのに、それも間違えてしまうなんて。
でも、と、私はまた思う。
船出のとき、これがはじまりだと、ウィリアムは確信しただろうか。
表面はどうあろうと、負けることも考えたのではないか。何もかもを、命だって失うことをも。
もしも、次の一歩であなたはつまずく、そう運命に教えられたなら、彼は従っただろうか。諦めただろうか。立ちどまっただろうか。
別の道を選ぶことはしたかもしれない。
けれども、そもそも誰もそんなことは教えてくれやしない。
昨夜、何の保証もないのにヘイスティングスに近いからというだけでカンタベリーの駅で降りて、私はやっぱり宵闇のなか、探したじゃないか。宿を。
そして、それはあったじゃないか。
丘だって、あそこにも、ここにだって、きちんとあるじゃないか。
また来れる。
おおきく吐いた息は白くなるまえに、雨のなかに溶けていった。
また、はじめられる。
何を?
あの時間を。
あの気持ちを、私ははじめられる。
いつでも。何度でも。どこにいても。
*
真冬の、夜の、雨の丘。
全身こごえきっているのに、なかなかそこを立ち去れずにいた。
足もとはどんどんぬかるんでいく。
それも厭わず私はそこに立って、見えない海からそれが渡ってくるのを、ただじっと待ち受けた。
くしゃみひとつでようやっと気持ちが決まるまで、ずうっとひとりで、迎えようとしていた。
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