しずけさが満ちる夜。ささやかな、記念日。
こんな、息をのむような静けさと、すいこまれるように見つめてしまう時間が、あるのだなと思った。
休日の夜。もう少ししたらみんなで寝ようという時間に、ふと気づいたら、起きている間はずーっとおしゃべりしているんじゃないかっていくらい話すのが大好きな息子が、やけに静かだった。
なにかに集中して遊んでいるのかな? まさかもう、寝てる……?と思って息子のいる方を見ると、彼は、絵本の並んだ本棚の前に座り込み、手にとった1冊の本を開いて、じっと見つめていた。
しばらくすると、ページをめくる。
開いたページを見つめ、少し考え、まためくる。
その姿から、私は、目を離せなくなってしまった。
すーっと。吸い込まれるように、見つめてしまう。
――こんなにも真剣な横顔って、あるだろうか。
いつもなら「ママこれ読んで!」「これも!」「こっちも!」と次々に私のところへ絵本を持ってきて、一緒に読みたがる息子が、ひとりで、本を読んでいた。
しずかなその場所には、彼と、本だけの世界があった。
その絵本は、少し変わった趣向の本で、物語の中に選択肢があり、選んだ選択に沿ってページをめくると物語の内容が変化する仕掛け絵本だった。
自分の選択で、展開が変わってく冒険物語。
何度も一緒に読んだその本をいま、彼はひとりで読んでいた。
自分で文章を読み、選択を考え、ページをめくる。
とてもとても静かだけれど、「すごい冒険」をしていることは、その横顔をみていればわかる。
きづいたら、隣にいた夫も、私とおなじように息子を見ていた。
声を出すこともなんだか、ためらわれて。
あまりにまっすぐで真剣なその横顔を、写真に撮りたい、動画に残したいって気持ちもふとよぎったけれど、余計なことをして、この静けさを壊すのが怖くって。
ただ、ただ、本を読む、その横顔を見つめてしまう。
わたしたちの家のなかに、静けさだけが満ちていた。
やがて、冒険を終えた息子は、ぱたんと本を閉じる。
ぴょんっと顔を上げて、こちらと目があった。
ぱたぱたぱたっとこちらへ駆け寄ってきて、ニコニコしながら、今しがた冒険した物語について教えてくれる。
ドランゴと出会うまでのこと、出会ってからどうしたのか。
冒険の結末は、どうなったのか。
そしてふと、宙を見つめてぽつりと言った。
「あードキドキしたぁ」
それは、ささやかなことかもしれないけれど。
私にとっては、ものすごいことが起きた夜だった。
すごいなと、ただ、思った。
こんなふうに、だんだんと、きみはひとりで本を読むようになっていくんだなぁ。
絵本を一緒に読むことも、だんだんと減って、いくんだろうか。
毎日こんなにたくさん、読んでとせがまれて。
ときにはヘトヘトに疲れていて、うーん読み聞かせするのは今日はちょっと辛い…と思う夜だって、あるけれど。
いつか、一緒に本を読む日は、こなくなるんだな。
君を膝にのせて、そのあたたかさを肌に感じながら一緒に本を読む日にも、終わりがくる。
それは当たり前のことなのに――その日を思って、ほんのり、さみしさも胸によぎった。
だけど、それよりも、私は、うれしい。
君がたったひとりで、本と会話することができるなら。
自分ひとりで文字を追って、描き出される世界に、心を躍らせることができるなら。
これから先、本は、きっと君をたくさんの場所へ連れていってくれる。
知りたかったことを、知るとワクワクするようなたくさんの出来事を、教えてくれる。
もしかしたらこれから先、どうしようもなく、かなしいときや寂しいときに。
めぐり逢った1冊の本が、たった1節の文章が、君の気持ちにやさしく寄り添ってくれる夜だってあるかも、しれない。
……そうであったらいいなと、願う。
これから先、たくさんの物語と、どんどん出会っていってほしい。
でも、まだもうしばらくは。一緒に本も、読もうね。
君が、私とつないだ手を放して、ひとりでどんどん進んでいく、その日まで。
――そんなことを、考えた。
しずかな、この夜があったことを、私はずっと覚えていたいな。
ささやかだけど、大切な、記念日として。