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平成最後の日は幸せな時間だったな

人の幸せというのは、ひとそれぞれの幸せに対する感受性によってまちまちである。同じことをしていても嬉しいと思う人がいて、なんとも思わない人もいて、すごく傷ついてしまう人もいて、事象そのものに意味はないのだけれど、それを何かしらの意味づけをしていくから、幸も不幸も生まれてくるといった、そういうものだと思っている。


そういう意味で自分の周りの人たちに大きな災害が襲うこともなく、病気や陰気によって酷いことになっている人もそれほど見当たらず、お天気は少し曇り空であったとしても、自分がしたいと思っていることが楽しい仲間たちとともに出来ているとしたら、それはやっぱり幸せだなと僕は思う。


平成最後の日はそういう意味でとても幸せな日だったなと思う。



本当に仲良く関わってくださる、仏に関わるご縁もある親友であり尊敬する先輩の北川さんから滋賀県の大通寺にご縁をいただいた。

親鸞聖人750回忌というタイミングに、「ただ相手の話をちゃんと聞く」という、ただそれだけの企画をさせて頂くことになって、その役割を本当に喜んで、ありがたく務めさせて頂くことになった。


こちらは浄土真宗の開祖である親鸞聖人を模した等身大の切り絵。


滋賀県の切り絵作家さんがお寺全体の装飾を担当してくださったおかげで、お寺全体に漂っている統一された凛とした雰囲気が一層際立っていたように思う。もちろん仕事で行うことではあるものの、こういう企画に立ち会えた作家さんもまた非常に幸せな人だと思う。



本堂をこうした切り絵が飾り付けられて、荘厳ながらやさしく、老若男女にすっと伝わる仏教らしさの感じられる作品だと思った。


実際この750回忌の企画実行委員長の住職さんとも話したが、この切り絵を本当に気に入っておられたようで、

「自分たちはついつい知識を得てしまって、仏教のことを小難しく伝えてしまっていないかと、あの切り絵に表現された見事な世界観を見ると反省しなきゃいけないような気持ちになります。私たちが本当に伝えたいことが本当にあの絵の中には詰まっていて、作品というのは素晴らしいですね。」

そうした言葉を素直に口にされる住職の謙虚さも本当に素敵だなあと思うし、仰る通り本当に世界観が示されている立派な作品だなあと感じた。



作家さんにとっても、仏さんを切り絵で描くのは初めてのことだったらしいが、本当に素晴らしい仏さんだなあと思って、自然と座って合掌をした。


しかし本当に立派な仏さんである。

仏さんの素晴らしさというのは、誰が描いてもその存在が伝わりやすく、またその価値の素晴らしさに変わりがないところだと思う。

小さな子がなにも考えずに純粋に描いた仏さんも、新進気鋭の若手作家が描いた仏さんも、人生の様々な艱難辛苦を味わった熟年の達人が描いた仏さんも、すべてに仏性が備わっていて、そこに手を合わせる気持ちが生まれるところに、その素晴らしさがすべて詰まっているように思う。


平成の最後にこのお堂で、尊敬する先輩とともに「講をひらく」のである。

これを幸せと言わずして、なにを幸せと言えようか。


北川さんは5年ほどかけて150回以上の対話の場「ぶっちゃけ」を。
ぼくは7年ほどかけて80回以上の対話の場「BOWS−CAFE」を。
(最近は仲間に任せっきりだけど!!)
あと「キワモノ会議」や「Birthday」や「丹波未来フェス」を。


それぞれの立場と役割で、それぞれに関わる人たち、集う人たちにとって、安心で安全で居心地の良い場をつくり続けようとしてきたように思う。


平成という年号が今日で終わるということを、すごく大きなこととして感じている人もいるし、なにげない1日として過ごす人もいる。それは平成が確かにバブルの崩壊があったとしても、ただしとても平和で穏やかに日本には戦争が起こることなく過ごされたことにあったはずだとも思う。

僕も北川さんも、参加していた人たちも、ほとんどの人が平成の30年間の中に人生の大半を過ごしてきて、その年号の最後を迎えるときを、浄土真宗のお寺にとって価値ある時間をつくるためにここに集えたことが嬉しい。


そもそも宗教というのは「人がしんどいとき、すこしでも楽にしたい」っていう純粋な思いがあって形になってきたものだと僕は信じている。

もちろんどこか政治に利用される中で捻じ曲がってきたときもあって、その部分だけを拾い上げて宗教の悪い面をことさらに強調する人もいるし、実際に平成の間に宗教絡みの事件が起こってしまったことで、素直に信心深さを持つことが難しい時間が過ごされてきていたことも事実だと思う。


それでもずっと安心の場をつくり続けてきた。
それでも安心する場をつくる力をちゃんと持ち続けてきた。
人が安心する場所が必要だと信じて、その場所を守り続けることが大事だという思いが、今日もまたこの場所に人を集わせる機会につながってきた。


そう思うと、今日はただ単なる今日なのではなく、多くの人が想いをつないできて下さった大切な大切な一日なのだと思うし、この場所を守り続けてきて下さったすべての人たちにも、また教えを伝え続けてきてくださった、すべての人たちにも感謝の気持ちを感じて、なんとなく泣きたいような嬉しい気持ちで合掌したい気持ちになる。



2019年4月末日に、僕たちは模造紙とマジックペンを使って、みんなの想いをたのしくてやさしい印象にして表現する材料も手法も自信も手に入れて、それでも僕らはきっといつかの人たちと同じように「こんなん言うのは恥ずかしいね」とか「ちょっと初めて言うんですけど(笑)」なんて、言えなかったようなことをつらつらと同じように話してくれたのではないかと思う。



ぼくなんかは最近はふざけた感じで「恥部」なんて活動をはじめたものだ。

みんな恥ずかしい気持ちが原因で、怖がって話さなかったり、怖くて相手よりも優位に立ちたい気持ちで威嚇(マウンティング)したり、仲間が欲しくて人の悪い噂を流したり、そうして時には人を傷つけたり、それで自分も傷ついて落ち込んだり、立ち上がれなくなったり、死んでしまったりする。


恥ずかしいっていう感情は、本当に厄介だ。
ぼくはそんな「恥ずかしさというオバケ」と戦いたい。


ふざけたり、まじめになったり、急いだり、ゆったりしたり、笑ったり、しかめ面したり、感動したり、聞き流したり、ボケたり、ツッコんだり、でも常に真剣にそいつと向き合って、ぶっ飛ばすか、仲間にするかしたい。

人の心の弱さを支えて生きて死にたいなあと思う。



今日は本当に幸せな一日だった。この日が平成の終わりだったことに心から感謝していて、令和を過ごす希望と勇気と愛の気持ちに満たされている。

平成の最後のタイミングで「すべてのことを愛して生きていく」と言い切れることが本当にありがたいことだなあと思うし、そのことに挑戦して生きるというのはずいぶん退屈することなく生きて死んでいけそうである。


みんなありがとう!死ぬまで生きていくよ!

そしてよかったら「そのしんどさ」に、
なんかできることがあったら言うてね。

それは僕はけっこう嬉しいことだからね。
お世話になってるからたまには役立たせてね。

急に読者の方からサポートもらえてマジで感動しました。競馬で買った時とか、人にやさしくしたいときやされたいとき、自暴自棄な時とか、ときどきサポートください。古民家の企画費用にするか、ぼくがノートで応援する人に支援するようにします。