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読中メモ:『2666』ボラーニョ①

ちょっとイヤな眼で見て、ちょっとイヤな考え方をして、ちょっとイヤなことを書く作家は、いざ精一杯はげんでみても、ちょっとイイ話しか書けない。それはその作家が普通の平凡な善人であり、あるいは単に才能が欠けていただけであり、それ自体は悪いことではない。もちろん邪悪なことではまったくない。
よい作家は、世間をイヤな眼で見て、じつにイヤなことを考えて、見事にイヤなことを書く。それは悪の行為だ。醜悪であり、邪悪ですらある。
ではなぜ読者は作家の本を読むのか?
よい作品は、全体は測りがたいイヤさに満ちていて、しかも部分は爽快で、愉快で、痛快だ。
俗に、イヤよイヤよも……などというけども、読んでるうちに、徐々に深刻な麻酔が効いて、全体をただよう悪意に蠱惑を感じるようになる。
イヤなことは煮詰めると心地よい。悪意は磨くと輝きだす。
あまりにも残酷すぎる。イヤな業界だ。悪臭のする沼だ。沼のような海だ。
ロベルト・ボラーニョの『2666』は、悪臭のするがキラキラとガラス片が光ってきれいな海か、さもなければそういう沼、または作中に登場する倦怠のプール、あるいはエピグラフのボードレールの言葉を借りればオアシスであり、悪の落とし児である文学のひとつの理想だ。
眼に見える美しい海が広ければ広いほど、世界の裏側には果てのない砂漠が拡がっており、濁りきった水に血や精液その他もろもろが溶けこんだ一見ごくちいさな底なしの水たまりが存在することが暗示される。
そして、その海と水たまりの厳重に隠された深刻な関係を描くのが文学の仕事だ。
恐らくこういったようなヴィジョンを目標に定めたボラーニョの、脱線・挿話だらけの書くという作業は、実際のところひたすら一点に集中しており、ゆるぎがない。彼のペン(だかタイプライターだかマッキントッシュだか、とにかく何らかのツール)は簡潔に、猥雑に、無数のさまざまな諧調の声を、同時にひとつの謎を、舞台であるヨーロッパとアメリカ大陸をめぐって踊る。

この文章のタイトルの「①」は信用ならない。筆者は最後まで読み終えても、何も続きを書かないかもしれない。それほどそれ自体が危うい作品であり、それほど読者を危うくする作品だ。

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