短歌と写真とミロのヴィーナス

僕は最近短歌の魅力に惹かれつつある。ツイッター上で見つけたとある方の詠んだ短歌を見ていて、僕が短歌に関するイメージが大きく変わったからだ。

短歌と聞くとみなさんはどう思うだろうか、落ち着いた趣味、ジジ臭い、若者文化とは無関係、こんなとこだろう。実際僕自身もこれに近しいイメージを短歌に関して描いていた。そんな中、僕はこんな短歌に出会った。

線香花火ぽとりと落ちて青春と言い切るだけの夏が足りない
桜田ねぎ(@paleblue_tanka_)

僕はこの短歌を見たとき、古臭いだけだったはずの短歌へのイメージが”はじけた”。ああ、短歌ってこんなにも濃厚で色鮮やかなんだ。そんな事を考えながら僕はスマホの画面が映している短歌にうっとりしていた。

そんなわけで、短歌の魅力に魅了されつつある最中の僕だが、短歌が持っている魅力は、写真、そしてミロのヴィーナスが持っているそれと通じているものがあると思っている。今回はこの三者に共通して僕が感じた魅力について書いていく。


その魅力とは、「不完全」だ。

短歌は基本的に5・7・5・7・7の31字で構成される。当然、何でもかんでも言葉を入れるわけにはいかない。文字数制限の中で、言葉にしたい想いを絞って短歌に込める。そこに、一種の潔さが生じる。

写真はどうだろう、写真には音がない。動くこともない。もちろん匂いをかいでも光沢紙の香りだけするし、食べてもおいしくない。だけれども、動画より、さらには、実際の経験よりも、はっきりと鮮明で濃厚に写真に映る景色を思い起こすことがある。

では、ミロのヴィーナスは?ミロのヴィーナスには両腕がない。この像が完成したときには存在したのかもしれないが、時代を経ていく中で、どこかに置き忘れてしまったようだ。僕が高校生の時、現代文の授業でこの両腕に関して言及していた文章を読んだことがあった。そこには、「両腕がないことによって、人は各々理想の両腕を想い描くことができる」と言及されていた。そう、これである。

不完全なものを見つけると、人は無意識にその不完全な部分を自分の想像力で埋めようとする。言葉にできなかったその短歌に込められた情景、写真には映らないその場所の空気感、人々の心の中にあるミロのヴィーナスの理想の両腕の構図。足りない部分は読み手が補おうとするのだ。この不完全な部分を補っていく過程で作品が多面的に見られる。そして、作品はより一層深みを帯びてくる。こうして、不完全な作品は受け取る側の想像力により、それぞれの心の中で”完全な”作品になっていくのだ。

また、不完全さは時として上手に不都合な要素を消してくれることがある。

写真には音がない。ないからこそ、写真を撮ったとき周囲が雑音にあふれていたとしてもそれは残らない。残るのはきれいなその時の景色だけ。そしてのちにその写真を見て思い出すのは、きれいな景色と自分の心の中で最もその風景にふさわしい”音”である。

こうして、不完全の中で景色は洗練されていく。

不完全、という言葉はしばしば、消極的な意味に捉えられることがあるが、僕はそんなことないと思う。不完全だからこそより多くの人々の心の中で愛されていく作品になると信じている。

作品に魂を吹き込むのは製作者ではなく、その作品を楽しみ、愛でている僕らだったりすることもあるのだ。

僕もいつかこういう作品を生み出してみたい。書き手ではなく、読み手にわたったときに卵から還るようなそんな作品を。




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