我ながら悲しい小説の世界を生きてるみたいだ。
『悲しみよこんにちは』と『ボヴァリー夫人』。どの時代もフランス文学にはハッピーエンドは用意されていない。『Emily in Paris』のLucも言ってた、悲劇こそ人生のドラマであり真髄だと。フランス人は “c'est la vie” と言って、受け入れて歩くんだ。そんな実らない愛の物語には、違った輝きがある。
なぜ、そんなことを考えてるかと言えば、気にもとてめてなかった、ものすごく近くて遠い場所に、そんな愛がずっとあったことに、初めて気づいてしまったから。その形は、ダイアモンドというよりは、ずっと大切にされていたビー玉のようで、それをこっそり渡されたような、そんな気持ち。渡されたほのかに温かいビー玉を手の中に感じて、それをただ握ることしかできない。それ以外に、この色と重みを感じる方法も確かめる方法も、私には思い当たらない。
ずっと前からそこにあったことは、全く思いもしてなかったのと同時に、ものすごく腑に落ちてもいる。7年前に初めて遠くからステージで話すのを見た時、知らない人なのに不思議な縁があるように感じたのは、気のせいではなかったのかもしれない。あぁ、気づいたのは私が先だったんだ。そして、今日初めてぽろりとおちた言葉が、ここ5, 6年の間の点と点をつなげて、私に新しい絵を見せた。今日の今日までまったく気づかなかったから、すこし呆気に取られてしまった。それでいて話せる人もいないから、精一杯の語彙力で今の気持ちを書いている。
このビー玉はどこへも転がっていかない。何にも変化しないし、綺麗なジュエリーになることもない。だけど、初めての愛情の形を知って、私は少し心強くなったし、寂しさはちょっぴり減った。ずっとずっと、複雑すぎる私という人間は誰にも愛されてないと思って信じて生きてきたけど、私は本当に本当に、誰かに愛されている。失くさないように、大事に引き出しにしまっておく。
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