雨を感じるなまあたゝかい春の
夜の低くたれた曇り空を仰ぐと、
まつ先に眼にうつるのはほの白い
櫻の花片のかたまりである。おし
默つて机の傍にからだをよせか
けてゐてさへ、なにかしら息ぐる
しさに惱まされる春の夜、僕は宵
のうちからイプセンの「幽靈」をよ
んでゐた。僕はこの今から五十年
も前に書かれたもののもつ、銳い
藝術の靈感にうたれ、胸にはげし
い壓迫を感じ、とうてい終りまで
よみつゞけるにた江なかつた。第
二幕のなかばで僕の衰へた神經は
白金のやうな火花を散らし、異様
な交錯のなかにまきこまれて了つ
た。僕はその苦しさからとびのい
て戶外へ出て行つた。ひろい、靜か
な街をぶら/\歩るきながら、僕
は自分の神經衰弱をあはれんだ。
自分のなかに或る强い信念をひそ
めながら、はつきりした行動にで
ることのゆるされない自分がたま
らなく淋しいものに思へた。自分
のきめられた世界から跳ねださう
としたり、勇敢な行動の第一歩を
ふみ出さうとする自分は、今のと
ころたゞ自分の影にすぎない――
影!僕はそんな影をもつ自分が哀
しかつた。ひょつとすると、僕はこ
の影のなかにかくされながら、永
遠に、ほんたうの自分の姿をみい
だすことなしにこの世を去るので
はあるまいか?そんなさびしい考
へにひたりながら、大きな學校の
土堤の櫻並木の下をあるいてゐた
そこをぬけると、ひとりでに或る
伯爵の古い庭園のそばへでた。ふ
と見上げると、うす闇のうつろの
中にほつかりと白い木蓮がきはだ
つて眼に映つたーーある朝、この
なんのやはらかみもない木の下に
立ち止つて、僕はじつとすが/\
しい氣持で幾つもの白い花片をみ
つめてゐたことがある。さ江/″\
とした靑空の中にこの端麗な花を
みる心はおごそかな感でいつぱい
だつだ。梅のにほひといりまじつ
て、胸にひし/\と迫つて來る、
あたらしい、生々しい木蓮のにほ
ひは、いつまでも忘れることので
きないものである。僕はその感じ
を思ひ出さうとしたが、水蒸氣の
多い氣味の惡さを持つた夜氣は全
くそれにふさはしくなかつた。僕
はいらいらしながら、なんの執着
もなく、明るい街の方へ足をはや
めたのである。
□
僕はしばらくして、ときをりゆ
く、或るカッフェの片隅にゐた。
僕はひとなみすぐれて珈琲のかほ
りをなつかしがる男だ。濃い黑褐
色の液体を前に置いて、そのこげ
くさいかをりをすこしづつたのし
むのが自分の貧しい享樂の一つで
ある。自分の長い髪の毛を指で撫
でることや、煙草などと共に、い
つでも自分の氣の向くたびにみた
すことの出來る、尊いたのしみで
ある。高らかに笑ひ興じる人達か
ら全く離れて、ポツネンと默想に
耽つてゐるときに、二人の小さな
女の子がキイ/\した聲を張り上
げながら、そこへ入つて來た。頽
廢的な、褪せはてた、それでゐて、
めまぐるしいやうな色彩と模様を
持つた長い袖の着物のなかに、い
たましくかさ/\にかはきゝつた
からだをつゝんで、それでもどこ
となしになまめかしい指粉の粧ひ
を漂はしながら、一人がいろんな
俗謡を力いつぱいうたふと、もう
一人は、銀紙でつくつたヒラ/\
かんざしを、キラめかして、扇子を
持つて踊る――酒に醉つた男が嘲
るやうに彼女たちの一生懸命な藝
術をけなしつけると、おび江つゝ
も彼女だちは、お客の氣嫌をそこ
ねまいと必死になつてもがくやう
にうたつたり、踊つたりするので
ある。それがおかしいと他のあら
ゆる男や女は笑ひつゞける――僕
はも早これ以上書くことは出來な
い――人間の生活のある一瞬にこ
んな悲惨な矛盾がひそんのでゐるの
か、醜い、まつ暗な生活の一團は
僕自身のまはりだけではなく、僕
がちょつと、知らない世界へ足を
ふみこめば、もつともつと多くの
ひどい人間生活の現實があるのだ
僕は珈琲やマドロスパイプのたの
しみをも忘れ果てゝ、この酒の焔
の爛れる匂ひと煙草の霧とのいつ
ぱいに漲つてゐるカフエーの扉を
のがれでた。うしろではしやいだ
女の聲がした。ふりむくと、ちょつ
と顔馴染になつたそこの女である
僕はひとりでに微笑んだ。女も笑
つて、あとはくもり硝子に髪の影
をうつしたまゝ、消江た。僕はそ
の瞬間、ふと、人間の愛慾の矛盾と
いふことを考へた。男は何かしら
た江ず女の幻に生きてゐる、女
も男の生活の片隅を突いてその美
しい翼を思ひのたけひろげ伸さう
とつとめてゐる――これは人間が
生きてゐる以上、恐らく永遠にか
はることのない結び目であらうと
いつしょに、その愛慾からかもさ
れる矛盾は永久につきることはな
いであらう。いろんな悲劇、いろ
んな喜劇、美しいもの、醜いもの
善、惡、眞、うそ、――そんなも
のはみなこの人間の愛慾の結び目
から醗酵するかびである。こんな
事を考へてゐる中に僕の胸にはひ
とりでにイプセンの「幽靈」が浮ん
でゐた、ハウプトマンの「寂しい
人々」が・・・・そして谷崎潤一郎の
「本牧夜話」や「愛すればこそ」や、
「愛なき人々」やの中のさま/″\な
この人間の愛慾のきづなをなちき
れぬ人々の、悲しい、寂しい姿が
思ひ出されてゐた――
明るい街にはぬいとりの絲のや
うな雨が降つてゐた。
僕はのぼせた頬が雨にうたれる
のを快く感じながら、僕の影とい
つしょに路上をよろめいていつた
(一九二三年、三月)
(越後タイムス 大正十二年四月八日
第五百九十二號 三面より)
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