ムウビイ・ファン
◇ヨオロッパやアメリカの活動寫
眞をみてへんに感じることがある
それは接吻に就てである。私はい
つか、活動寫眞程コスモポリタン
なものはないと云つたやうに覺江
てゐるが、あの一つの映畫の中に
きまつて現はれる接吻には、とき
どきひどく變な氣持にさせられる
のである。それといふのは私達が
日本の國に生れて、その生活雰圍
氣から、一足もそとへ踏みだした
ことがないからなほさうなのであ
らうが、接吻といふものが、人間
のだれにも、共通する、或る一つ
の性的な刺撃を與へるものにちが
ひないためでもあらうと、私は考
へるのである。
◇ほんたうに映畫の中では、やたらに
接吻をみせられてきたものである。私
がまだずつと子供の時分は、もう靑春
時代にはいつた、靑年や少女が、しつ
かりと抱きあつて、唇を吸ふ、かなり長
い塲面をみると、自分のからだ中の血
がぐら/″\と湧きたつて、めまひがす
るやうな幻惑を感じたものである。け
れども、今では、若い男と女がどんな風
に接吻しやうが、ちつとも、おどろかな
くなつてしまつた。愛人がたつた二人
きりで接吻の歡びにひたることなどは
日本人の間だつて、なんの不思議もな
いわけだし、私だつてそんな味を知つ
たからである。
◇だが、今になつても變な感じがして
ならないのは、親身の間柄にある人々
のする接吻である。たとへば、もういゝ
かげん年をとつた人が、またこれも、人
間にとつて一番大切な若さから、とう
に見離されてしまつたやうにみ江る、
彼の妻と接吻するとか、親が子供を、兄
が弟妹だちを接ぷんする――もつとも
こんな塲合には唇を吸ひ合ふまでにゆ
かないで、頬ぺたを磨りつけたり、額と
か、手とかに、輕い息をふきかけたりす
るのが常ではあるが――とかいふとこ
ろをみると、全く、へんな氣持といふよ
りほか云ひ現すことの出來ない感じを
私はうけるものである。
◇これは誰れでもがさうであると、私
は云ひきる勇氣を持たない。或は私一
人がさうなのかも知れないが、私達日
本人のふだんの生活をみると、あの活
動寫眞にみるやうに、一日のうちに、何
べんも親と子供が抱き合つたり、兄と
弟妹だちが、頬ぺたをこすりつけたり
する人をみたことがないのである。こ
れは私の個性なのであらうが、私など
は生れてから今までのうちに、一ぺん
もそんなことをした覺江がない。殊に
私はあの小說家菊池寛の書いた「肉親」
の主人公のやうな性格を持つてゐるた
めか、肉親のものに心から親しみをも
つて近づいてゆけない男だから、自分
のほんたうの心持を父母弟妹に知られ
ることを怖れるといふ風なのである。
◇だから、どんな歡ばしいことや悲し
いことがあつても、あの映畫でみるや
うなもつともあれは映畫だけでなく、
外國人の實生活もさうなのであらうが
――年老いた父親がもう二十歳にもな
つたうつくしい娘の悲しみを、いつしょに
抱き合つて泣いたりするやうな、親し
みを私の肉親のものにみせることなど
は出來ないのである。母や弟妹の手を
とつたりすることだつて、何だか、後め
たいことでもするやうな、自分の心に
恥しいやうな、いはゞある自己嫌惡に
も似た心持がするのである。私の父が
死ぬときも、私は枕元に座つてゐたが
涙は頬を流れても父のやせ細つたから
だにすがりついたりはしなかつた。私
はどうも、そんな、こぢれた、へんな性
質の男かも知れない。だから、あたりま
への人々がみたら、あたりまへにしか
考へられない、映畫のあのやうな塲面
をことさらに、變に感じるのであらう。
◇私は、世に云ふところのムウビイ・フ
ァンの一人である。だが私と同じやう
に活動寫眞の好きな人々のうちで、私
が今、たど/\しく述べてきたやうな
ことを感じる人が、他にないともかぎ
らないと私は思ふのである。若し、そん
な人が一人でもあつたとしたなら、私
はムウビイ・ファンの一人として、映畫
をたのしむときに、そんな個性をはた
らかしていゝものか、どうかを、たづね
てみたいと思ふのである。
□
◇ほかのすべてのものと同じやう
に活動寫眞もだん/\進歩してゆ
くやうである。外國ではどうか知
らないが、日本の役人共は活動寫
眞のことを民衆娯樂だと云つてゐ
る。日本の役人共には民衆といふ
ものがどんなものなのかちつとも
分つてゐないから、民衆を低級と
いふ意味にとつて、高級娯樂と對
立させてゐるのだらう。そんなう
すつぺらな考へしか持つてゐない
役人共が、民衆の一階上に立つて
さかんに旗をふつてゐるやうな國
に、藝術味の豊かな、活動寫眞が
つくり出されると私は思はない。
◇立派な、自分の生活意識を持つ
てゐる平民勞働者のことを民衆と
いふのだ。日本の役人共の云つて
ゐる民衆は豚のやうな生活しかす
ることが出來ない、デカタン勞働者
のことだらう。どこの國でもさう
だらうが、役人共がすべての藝術
だつて伸びてはゆかない。日本で
公開される、外國映畫を、役人共
がカットしてしまふんだから、大笑
させるではないか。役人共には
ほんたうの民衆の趣味が分らない
からだらう。
□
◇昔、アメリカからくる、靑鳥映
畫はそのすべてがロマンティシズ
ムであつたが、それは、ほんたう
に、私達をよろこばせたものであ
る。今のアメリカは、もう、あの、
軟い感觸と、豊かな夢幻味と、
なつかしい純朴さとを持つた映畫
をつくりだすことは出來ないだら
う。あの頃はいはゞ、活動寫眞の
處女時代であつたのだらう。恰も
一人の作家の無名の頃のやうに眞
劍にもがいたのであらう。
◇今は、近代人の持つ感情と洗練
された技巧の圓熟と繊細な理智と
ウ井ツトと、近代人特有の現實味
と科學的な理想を持つ處の、いろ
んな監督や俳優や作家や撮影者が
現はれてさま/″\なすぐれた映畫
をつくつてくれる。けれども、私は
もういちど、ブルウバード映畫が
みたくて耐らない。私は先日、ひ
さしぶりで、ピナ、メリケニの「處
女時代」といふ、落着いた伊太利の
映畫をみて、ふいと、昔のブルウバ
ード映畫を思ひ出したのである。
□
◇日本の映畫のうちでいくらかで
もすぐれたところのあるものの多
くは、悲劇である。私は殊にあの
ロマンチックな、山村の淋しい、
涙ぐませずにはおかない、哀話を
織りまぜた、映畫に、日本の作品
が、ユニークなものをより多くみ
せてくれるのを、さう惡いことだ
とは思はない。日本の作品のゆく
べき路がそこにあるならば、どこ
までもそれを深めてもらひたいと
思ふ。しかし今の日本映畫は、も
つと撮影とサブタイトルに就いて
研究しなければいけない。この二
つは、どんなつまらない外國映畫
に比べてみても、はるかに幼稚で
ある。
◇私が今まで見た日本映畫のうち
で、いちばん印象の深いものは、
谷崎潤一郎の脚色監督した「蛇性
の婬」である。これなどは私の活動
寫眞についての考へと全く一致し
てゐるからであるが、日本でも、
あゝいふ風な、グロテスクな映畫
をつくらうと思へば、かなりいゝ
ものが出來さうである。日活でも
大泉黑石の「血と靈」をつくつて大
分研究的な態度をみせてゐる。私
は、谷崎氏の「日の囁き」大泉氏の
「黃夫人の手」佐藤春夫氏の「星」
「指紋」などを、研究的にどんどん
つくつてくれることを、日本の映
畫製作者にのぞむものである。
(十二年十二月稿)
(越後タイムス 大正十二年十二月十六日
第六百二十九號 六面より)
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