卓 燈 夜 話 (五)
◎藝術品を愛好するといふ氣持は
ちょつとひと口に言へるものでは
ない――ほんたうに藝術品に憧れ
に近い愛着心を持つてゐる人にだ
けそれは分る氣持だ。私は、藝術
品の持つ、つかみどころのない、そ
れでゐて渾然とした美しさをたゞ
江てゐる、あのいはゞ夢幻な雰圍
氣をぼんやりと、憧れ貪るもので
ある。
◎私のやうに凡そ藝術品とはなん
のかゝわりとてない仕事にたづさ
はつてゐる人間は、たゞそのまゝ
でゆくと、餘りに心持が乾きすぎ
るし、あるがまゝの人生のほか、
どんな美しい眞實をも知らずにす
ぎて行くであらう。それでは餘り
淋しすぎる。荒みすぎる。こうい
ふ私の、ともすれば石ころのやう
にかたく荒まうとする心持を、清
純にやはらかく息ぶいてくれるも
のは、今の私にとつて藝術品より
他はない。
◎女を愛する心持も人生を豊潤に
して呉れはするが、それは一方、
大へん苦しいものである。藝術品
を味ふ心には戀愛のやうな苦惱は
ないといつてもいゝ。私は他の人
々のやうに藝術品によつて自分の
人生を指導してもらはうといふ考
は持たないから、どんないゝ藝術
品でも人生を救ふことは出來ない
ぢやないかといふ、藝術品に親し
むことによつて感じる淋しさや絕
望などを甞て覺江たことはないの
である。
◎近代劇や今の小說に描かれた人
生がいかに自分に近いものであり
自分にそつくりなものであるにし
ても、もとよりそれは自分そのもの
ではないのである。であるから、そ
れらの主人公の氣持に感激し、そ
の生活の苦しさや喜びを感じたと
ころが、そのおちゆく徑路をその
とほりたどるべきだと自己にあて
はめて斷定することは出來ない。
又さうする必要もない。最後のも
のは自分自らである。自分の人生
にとつてそれらの藝術品は決して
最後のものではないのである。
◎藝術品が若し、一時代の實生活
を如實に寫し、その針路をさし示
すだけのものであれば、それはお
そらく永遠なものではない。或る
藝術品の多角的な或は圓形な器の
なかにもられた作者の感情から醗
酵する、味ひや匂ひや色合ひこそ、
私をいちばん樂しませ、をどらせ
るものである。私はそこに藝術の
気品高き美のエタアナリティを感
じるのである。自分の生活とそつ
くりな主人公を描いた作品がある
としても、その主人公は自分でも
なければ、そのほか實在の誰れで
もない。それゆゑに、いかに自分と
はかけ離れた生活が描かれてゐて
もその藝術品が、その表現とか色
合ひとか、作者の心境が、自分に
親しみ多い匂ひを漂はしてゐるも
のであれば、私はその藝術品を愛
好するものである。
◎文學的作品に對してこういふ觀
方味ひかたをするのは、決してそ
れを輕がるしく考へるためではな
い。私は文學はさういふ風に考へ
てこそ、いちばん、それを愛敬でき
るのだと思ふのである。であるか
ら私は、世に喧しい大作とか傑作
とかを必ずしも尊敬はしない。室
生犀星氏、佐藤春夫氏、谷崎潤一郎
氏、芥川龍之介氏、犬養健氏だちの
藝術を、私の考へるやうな味ひか
た以外でみて、いゝのだらうか。藝
術がかもしだす、美しきかびのほ
かそこにどんなはつきりしたもの
があらうか。それは、映畫雰圍氣に
も似た霧のやうな、ぼんやりとし
た渾然たる感じではないか。この
感じこそ、私の頭に泌みこむのだ。
その感じこそ、我々にとつて、永
遠に尊いものであるのだ。
◎里見弴氏の「おせつかい」や「多
情佛心」は純粹なる處世訓として
私は愛讀したものだ。今の私の或
る女に對する戀ごころは、宇野浩
二氏の「心中」加能作次郎氏の「邂
逅」、正宗白鳥氏の「心中未遂」と、
この三篇の短い作品の女主人公の
何とも云はれない、いとしいまご
ころに、耐らないほどの愛着を覺
江しめた。こういふ風に私に於て
は、藝術を愛好する氣持は大へん
漠然たる氣持である。矛盾そのも
のである。して、この氣持が私を
藝術から放さないのである。
◎秋涼をそゞろに覺江るこの頃は
私は勤め先の晝休みに、宮城の濠
端の柳の樹蔭に座つて、さまざま
な本を繰り返して讀んだ。與味の
ない仕事で固くなる頭も、わづか
一時間でも、さういふ藝術品にひ
たると、春の河水のやうに潤ほつ
てきた。その藝術的快感は、不思
議に私の藝術的感情を燃江上らせ
た。自分も一生のうちに一篇でも
いゝから、美しい作品を書きたい
――こういふ昂奮を覺江るのも、
さういふ時であつた。
(十三年九月稿)
(越後タイムス 大正十三年十月十二日
第六百七十二號 三面より)
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