感情を知るとはどういうことか
プロジェクトOliveでは感情を知るというのをメインテーマの一つに置いていますが、果たして感情を知るとは何を意味しているのでしょうか。Affective computingの分野では類似の多くの取り組みが行われており、表情、声、その他の生体反応から対象の感情を読み取ろうとしています。しかし、感情を読む行為が一体何を意味しているのか、もっと深掘りした方がいいのではないかと思っています。今回はこのような論点に関する個人的な見解を書いています。残念ながら、この論考の中では結論的なものに行きついていませんが、ヒントが隠れていることを期待しています。
主観的な感情
感情は心的活動の一側面であり、喜怒哀楽などがこれに当たると考えられています。まず、よくありがちな問題設定である、主観的感情の計測をしようとする試みに関して考えてみます。
基本的な前提として、感情の感じ方それ自体は本人以外に本質的には分かり得ない可能性があります。一般的にはクオリアと呼ばれる問題で、実際に感情をどう感じているかという質的な側面を指します。例えば、コウモリは超音波を使って障害物を避けたり、獲物の虫を見つけるという外部観測可能な事実を私たちは知っています。ですが、それがどのような感覚をもたらすのかは、実際のコウモリにならない限りは知り得ることができないと考えられています。
人間における感情も同じで、私が感じる感情を、あなたが感じることはできません。できませんは言い過ぎかもしれませんが、あなたが私になるしかそれを経験する術がないとすれば、それはすでにあなたではないので、結局私の感情は私しか知る由もありません。
ですが、実際に主観的感情を知ろうという心理学的、神経科学的、工学的な取り組みは行われています。そのときに主観的感情の意味するところは何なのでしょうか。例えば、嬉しいという感情はほとんどの人間にとって、大体同じことを意味すると仮定します。先ほどのクオリアの話のように、本当は知り得ないかもしれませんが、全く違うものに感じられているとも思えないので、大まかには同じようなものだろうと緩い制限の中で考えるということです。少なくとも、ある感情は異なる人間の間で同じような機能を持っていると仮定するのは妥当だと思います。
例えば、人間は激昂すると掌に汗をかき、心拍数が上昇します。これは闘争か逃走反応と呼ばれ、敵と戦ったり、その場から逃れるための準備だとされています。他にも、恐怖の心的状態は身構えることに役立ちます。これらの感情の質的な部分が仮に異なったとしても、機能上複数の人間の間で同じであればまずは同じとしてみている感があります。
また、動物の死骸を見て嫌悪したり、子供の笑顔を見て幸せになるなど、ある対象がある心的状態を喚起するのは、それなりに高い蓋然性があるように思えます。すると、対象者に何かを聴かせたり見せたりした時に生起する感情は、大体同じような範囲に存在すると考えられます。この条件が妥当かは常に精査されるべきですが、これを前提として暫定的に論を進めます。
主観的な感情の計測とは
すると、心理学や感性工学などが扱っている主観的感情は、感情を抱く本人が感じる質的な面というよりも、機能的な同一性や、類似の刺激に対する反応だと考えられそうです。例えば、心拍変動(心臓の動きの変化)から主観的な感情を当てようとする一般的な研究設定ですが、ここで言っている主観的感情はある状況に対しての機能的側面が多くの人間の間で類似していて、似たような身体状態になるだろうというような前提が隠れています。
また、自らの感情を他者に伝えるのには何らかの記号的な表現を媒介します。言語、表情、図的表現(絵を描くなど)がこれにあたります。何らかの記号的な表現を用いなければ、相手に何かを伝えることは難しいのは想像に難くないと思います。こう言った記号表現は文化的であり、人間の生活がうまく行われるようなやり方で運用されています(そのような結果になっているという方が適切かもしれません)。例えば、赤いリンゴを見た時に、私の感じる赤の経験があなたの感じる青の経験と同質あったとしても、同じリンゴを指示する場合には赤(もしくは青)と呼ぶでしょう。これは、内的な経験が二人の間で同じである必要はなく、各々の主観的経験が対象との間に再現性のある形で存在するれば赤という言葉(記号)を割り当てられてることができるという問題と見做せそうです。なので、本当はあなたの怒りは私の悲しみと質的に同等であったとしても、記号表現的にはどちらも怒りである可能性があり、その点では計測は記号を介するので、質的に同等であるかは保証されないことになりそうです。
客観的な感情
では次に、客観的感情の計測について考えてみます。主観的感情に対比させて客観的感情と呼びましたが、何を指すのか分かりにくいので、他者から見た感情と言い換えます。
Aさんの感情を他者の視点で評価することを想像してください。様々な他者からの評価を大量に集めると、何となく答えが収斂します。これは、先ほど出てきた記号表現が、多くの人間の間で共通の方法で使用されているからだと考えることができます。例えば、笑顔の表情だと考えられる写真を見た場合には、多くの人がそこに写っている人物は笑顔だと答えるように。
ただし、異なる評価者の間で、同じ記号表現が必ずしも同じ内的経験を表しているしているわけではないという可能性を考慮すると、これは「一般的にはこうだよね」という実践的な合意に近いものであると考えられます。なので、他者視点の評価を元にすると、ある対象の感情とは同質の経験を持っていようがいまいが、こう解釈するのが「社会実践の中で自然だよね」という含意が存在する可能性が高そうです。
感情計測がやっていること
ここまでの論考から、心や感情に関する現状の認識を見るに、質的な経験を推論すると言う意味での感情計測は、できるのかできないかすら不明であると考えています。それでは、いったい何ができているのか。感情を計測しようという試みは無意味なものなのでしょうか。
感情計測で行われているよくあるパターンを整理すると、次の三つが感情のラベルとして割り当てらることになると思います。少なくともAffective computingの分野ではこのような分類が可能だと思います。
(1)本人にどのような感情Xにあるか記号的な表現X'をしてもらう(主観的経験と記号的表現が切り離されないので文化的なものが入り込む)
(2)表象Y'は他者的な評価で感情Yと呼ぶ(他者評価Y'は個々の評価者の評価y'を集めた統計量である)
(3)刺激Z'を与えると、通常は感情Zが喚起される(背景には既に状況に対して喚起されるであろう感情の統計的な合意がある)
感情を考えるにはいくつかの立場がありますが、私の考え方は構成主義に近いものだと思います。真逆の立場はポール・エクマンを代表とするような基本情動理論で、感情と表情のような表象との間には本質的な対応があるという考え方です。どちらが正しいのか答えは出ていないのですが、あくまで当人の記号表現やその解釈を必要とすると言う意味では、構成的な立場で見るのが合理的である気がしています。表現する方にも、受け取る方にも、解釈や習慣が入り込みます。ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム的に考えると、記号的な表象や解釈に絶対的なルールがあるわけではなく、習慣的なルールであるとするような考えであり、そのようになっているとしか言えないようなものです。
記号的な表現と解釈を含むしかない
とすると、結局感情の質的な側面を知ることはできているかわからないよねと言うことになり、何らかの集団実践的なルールで、あるやり方で機能しているものを観測していることになりそうな気がしてきます。心拍変動解析による感情推論を例にとると、元となるデータセットは以下のようになることが一般的だと思います。
(1)心拍変動ーX'(X):本人の申告
(2)心拍変動ーY'(Y):他者が申告
(3)心拍変動ーZ'(Z):間接的に他者が申告
どこかしらで記号的な表現が入り込むため、感じるではなく申告と表現しました。究極的には本人の主観的経験と生理反応との対応を知りたいのですが、これを取り出すにあたり確証が持てる方法はまだないこということになりそうです。現状の感情推論はそれぞれの方法が、それなりに主観的経験と結びつきがあり、かつ、その構造が人間という存在の中で概ね共通しているだろうという仮定のもとで行われている形になっているように思われます。
感情計測の方向転換〜相互作用者の視点〜
このような論の進め方をすると、一向に感情認識の正解が何なのかという核心に至ることがないような気がします。しかし、そもそも論として主観的な感情を知りたいとはどのような欲求なのかを考えるのも悪くないかもしれません。
例えば、友人が怒っている時に、本当に怒っているかどうかを知る術は究極的には無いとしても、実際の営みとして怒っているだろうと推論ができているのは、何らかのルールのもとに人間が振る舞っているからであり、受手もそのルールを了解しているからです。それによって、社会的なやりとりが概ねスムーズに行われることになります。少なくとも、生物学的に好まれないであろうことが不快であり、好まれるであろうことを快であるとするならば、合意できそうな部分も多く、それを周囲に伝達することは関係性の中で生きていく上では合理的でありそうな気がします。とすると、微妙な部分はあるものの、これらの表象はそれなりに主観的な経験を表していると考えても良いかもしれないと思えてきます。
また、主観的な感情そのものを追い求めようとするよりは、感情がどのような機能を持っていているのかに注目することが建設的なのではないかとも考えられます。友達が怒っている時には、私は相互作用可能な観測者であり、怒っているという可能性が受け取れればいいのではないのでしょうか。怒っているという可能性を受け取れなければ、その状況に対して偶然以外の理由で改善(例えば、怒りの消失)を見込めませんが、怒っている可能性を受け取れれば、私の中にそれに対処しようとする状態になる可能性が現れます。そこで実際に何か干渉を試みた時に、次に彼から怒りの表象が消失するのであれば、一旦の成功と見なすような、ゆるい制約の元に人間は活動しているのではないでしょうか。
つまり、完全な主観的経験の計測は、研究の対象としては究極的なものであり、達成したいものであることは同意できるのですが、必ずしもそれが必要であるわけではないのではないかという論が展開できそう、という主張をしています。
完全に観測者としての振る舞いから感情を知ることは難しいことはここまでの論で感じられるのですが、それは人間が完全に第三者的な視点で、ある人の感情を評価することが生活の上でそこまで意味がないという直感が重要な視点になると考えています。多くの場合で感情を読む確度を思考の中で高めるのではなくて、反応的な行動のトリガーとして作用していて、行動による相互作用によって、その推論が確固たるものになるというプロセスが存在すると思います。
とすれば、感情計測は主観的経験や、実際の生活から切り離された完全なる第三者の視点からの評価を追い求めるというよりは、相互作用システムの内部入り込むことで推論の確からしさを担保するような方向に進化してもいいのかもしれません。つまりある種の間主観的な立場による感情計測の可能性を探究してみてもいいのではないか、というのが暫定的な主張です。
おわりに
今回は引用を最小限にとどめ、私自身の主張を書いてみました。主観的な立場はそれの同一性を担保するのが難しいように思えますし、客観的な立場は感情の実践的な意味を見落とす可能性が高いように思えます。最近はこのようなことを「ああでもない、こうでもない」と独りで黙々と考えていました。そうすると、自分自身の主観的な部分が増長しますし、想像上の他者というある種の客観的な立場に私自身を置いてしまうような気がします。あくまで、感情や心が社会生活や生存戦略上で登場したものであると前提すれば、実践的なやりとりを通した視点が必要なのではないかと思っています。今回はこれで終わりですが、この話題は継続して続けていくことになると思います。難しいですね。