旅はおわり日々は続く
4日留守にした自宅に帰ると、ベランダのあの鉢からは、3本の捩花が伸びて咲いていた。ピンク色の小さな花を螺旋状につけて、すっくと立っている。いとしい姿。
旅から少し経ち、いま振り返れば、実にわたくしは覚悟がなく、ハラがすわっていなかった。
母が推し進めた[父を最後に郷里に連れていく、会いたい人に会う]旅。要介護の父を伴っての、家族の旅。今回 母がしようとしたのは、言うなれば終活だ。親戚たちに母が繰り返した言葉は、「最後だから」。
であるならば私は、母を、全力で支えればよかったのだ。自身の個展があったこと、母の様子が度を超えていたこと、いくらも言い訳はできるが、もう少し、私に覚悟があれば、と今は思う。奇跡的に怪我もなく、会いたい人にほぼ皆会えて ー既に世を去ってしまっていた方もいたけれどー 、帰ることができた。これは現地でのサポートが手厚かったから、ということに尽きる。わたしは組まれたツアーにただ参加しただけの、実に頼りない同行者でしかなかった。
宿について少し書いておく。
市の観光課に問い合わせ、最もバリアフリーが進んでいるホテルとして紹介されたのは、中心部から少し離れたところにあるビジネスホテルだった。そのバリアフリールームなる部屋に父は泊まり、隣の部屋に母と私が泊まった。父の部屋は確かに、車椅子ごと入れるユニットバスがあり、トイレやバスタブには手すりがついていた。ただベッド周りにはまったく掴まれるものがなかった。車椅子からベッドに移るという、健常者ならば単純な動作が、それは困難だった。
旅の3日目の晩、連日の疲れを抱えた父は極めて機嫌がわるく、足の動きも良くはなくこちらの動き一つ一つに反応して大声で叫び、私と母は心底往生した。
いやむしろ父と同等に疲れている母は、もう何もさせられる状態ではなかった。母を部屋に行かせて、私は父をベッドに寝かせようとするが、どうにもならない。父の身長は180センチ。多少縮んだであろうし、太ってはいないが、私ひとりの力ではその体を支えることができない。息を切らし、ベッドサイドの電話を見るとフロント、と書いてあるのが目に入った。
フロントにかけると、事情を話し手助けを頼む。夜勤と日勤との境の時間であったらしく、男性職員はもう退勤し、10時まで女性しかいないという。電話口の女性は大丈夫です、参ります、と快く返事をしてくれたが、現れたのは若く細身のかわいらしい女性で、私は失望と申し訳なさに眩む思いがした。
結局、さらにもう一人の女性職員が来てくれて、3人がかりで父をベッドに寝かせた。着替えさせることもできず、父は終始叫んだり抵抗したりして、最後はベッドに放るようにして父を横たえた。
県庁所在地の別の市のホテルにも一泊した。
こちらのバリアフリールームは先のホテルのそれよりも広く、ベッドも二つあるツインルームだったが、やはりベッドサイドにもテーブル周りにも手すりの一本もなかった。
飲食店も段差が多かった。訪ねた一般のお宅でも当然そうで、さまざまなバリアに父や私が狼狽すると、お店を手配してくれた方やそのお宅の方々が申し訳なさそうにされるのが、どうにも心苦しく、つらかった。
そもそも自らを律して健康を保ち、老いてなお自力で生活できるよう生きることが前提とは思うが、それでも人は時に期せずして要介護となる。バリアフリーと名のつくあれこれが、本当にそうなれば有難いと思う。
旅を終え、家に帰りつき、父をいつもの椅子に座らせると、思わず父と、そして母と手を握り合った。母は、わたしに「ありがとう」と言ってくれた。
この頼りない同行者に。
それからすぐに日常が戻り、数々のバリアを乗り越えた感激はたちまちに薄れ、喧騒の日々が始まったが、わたしの意識はわずかに変化した。
少なくとも、自分の父母が、特に母が、もう充分にいたわるべき年齢であることを遅ればせれながら認識した。
三本の捩花のように逞しくなれるだろうか、私は。
捩花から朝顔へ、季節は巡っていく。