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入園する我が子へ。母の心境

単純に美しいという理由で、桜が好きだ。
でもここ数日は、複雑な気持ちで眺めていた。
少しずつ開いていく花びらの隣で、「あと何日……」と、入園式までの日数を指折り数えた。寂しくてたまらないのである。それが身勝手な感情だとしても、自然に湧き上がってきてしまうからどうしようもない。

今月までしか一緒にいられないから。あと二週間しか一緒にいられないから……。
毎日、そう頭の中でカウントダウンしてきた。
ひどい母親のようだけど、そのとき感じていたのは寂しさばかりではない。正直に言えば新生活への期待もあった。
やっと仕事を始められること。誰にも邪魔されずに作業巣る時間ができること。他の人も頼って子育てできること。
上の子のイヤイヤ期と、育てる人数が一人増えたことで、子育て中に疲れを感じる瞬間が増えたタイミングだった。いつだって心穏やかに笑って、子どもと同じ目線で遊んであげたくても、手が足りない。心の余裕も足りない。
自分に子供ができるまでは避けたいと思っていた“子ども一人でyoutube鑑賞”も、つい先日解禁してしまったし、下の子の世話中に上の子が危ない行動をして怒ったこともあった。怒るんじゃなくて対話する。そんな風に育てたかったことを、思い出しもしなかった。いきなり怒られて上の子もムキになり、ありったけの力を込めてぎゃーーーっと叫ぶ。そんな我が子を笑って抱きしめる余裕のない瞬間が増えた。

「私はいいお母さんになれるだろうか?」
はじめて出産した日から繰り返した自問。でも、子どもが成長していくにつれて、いいお母さんどころか自分がなりたくなかった母親像に近づいている気がした。
上の子の感情が乱れることが多くなった。それはイヤイヤ期のせいかもしれないが、私のせいかもしれないと悩んだ。いつも穏やかにフラットにいられたら、もう少し違うのかもしれないと。
理想の母親を目指してきたはずが遠ざかって、自分を責めることも疲れを感じることも増えた。

だから、入園はいいタイミングだった。
私たち親の意向だけで入園を決めたけれど、「保育園に預けて働くこと。後ろめたくないわけじゃないけど」という記事に頂いたコメントや他の人の記事を読んで、子どもにとっても保育園に通うことはいいと思えるようになった(罪悪感と後ろめたさが重くのしかかっていた心をふっと軽くしていただきました。本当にありがとうございました。)。


入園までの残り日数が短くなる。
残された日々の貴重さをわかりながらも、毎日、同じような1日を過ごしている。

『あと何回、お昼に一緒にスーパーに行けるかな?』 娘の手を引きながら、そんなことを考える。
ルーティンだったはずの行動が特別に変わっていく。


先日、暖かな朝に上の子がベランダに出たいと言った。飛び跳ねて伸びた髪の毛が揺れる。その髪の片方を耳に掛けてあげると、その横顔はいつの間にか赤ちゃんから少女のように変わっていた。その成長を残しておきたくて、シャッターを切った。
それから赤ちゃんの頃の娘を思い出そうとしたけれど、どうしてかはっきりと思い出せない。写真フォルダをスクロールすると画面の中には今よりもっと幼い娘。可愛くて、可愛くて、思わず笑みが溢れて、それからどうしようもなく苦しくなった。
離れて過ごすことが寂しいというより、入園して、戸惑い家を恋しがる娘の姿を想像して胸が締め付けられるのだ。
ここ最近は、私の感情もこれまで以上に揺れ動いている気がする。
もっといろんな場所に連れてってあげたかったとか、家でもいろんな遊びをしてあげたかったとか、もっともっとたくさんできることがあったんじゃないかと考え続けている。でもその反面、これで精一杯だったという気持ちもある。

時間が過ぎるのは本当にあっという間だ。

真夜中、隣で眠る娘の布団をかけ直した後で静かに抱きしめた。いつの間にかこんなに大きくなった我が子。
毎日、楽しかったね。
泣きたくなるほど胸が締め付けられたあの日。


桜は満開になってしまった。

娘が桜を指差して「きれいねぇ!」と喜ぶ。通り過ぎる時には、きちんと「バイバーイ。またねぇ」なんて挨拶まで。
「〇〇ちゃんが産まれた日も、こんな風に桜が綺麗に咲いていたんだよ」と話すと、「さくら?」と頭の辞書にインプットするように復唱する。それから「きれいねぇ。 ねぇ?」と同意を求めて振り向いた娘。
「ほんと、綺麗だね」 心からそう思った。

桜が満開になってもまだ、私の心の中にはいろいろな感情が渦巻いて、すっきり晴れというわけではないけれど。
それでもこの満開の桜のもと、大きな一歩を踏み出す子どもたちに精一杯の愛とエールを込めてこう言いたい。
「入園、おめでとう。」


#子どもに教えられたこと

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射空かもめ
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。