念願叶った後夜祭ステージから丁度3年の日。幸運が重なり、プロのサポートを受けられる立場にあった僕らは、知名度に見合わないクオリティのEPを発表することができた。タイトルは、“Only To Wave”。僕らの存在を誰かに知って貰う為の6曲。思い出の曲たちはそれとして保存し、バンド名も一新した。自らの非力さを痛感し、それまで表立った活動をしなかった僕らが、誰かに“手を振るだけ”の為に、堕落した生活の中で漸く形にした作品だった。 僕らは、作る曲が“良い”ということに細心の注意を
バンドを組んで、音楽に対する認識が一変した。 リードギターと一緒に曲を作ることになり数日。彼からリンクが送られてきた。それはThe 1975の“Girls”のMVで、確かなポップネスがミニマルなサウンドに乗った曲だった。それまで邦楽しか聴いてこなかった僕にとって、それは目新しいものに感じられた。英詞である、ということだけでなく、メロディパターンや展開、リズム感や音像など、何から何までだ。対して彼は、僕が慣れ親しんできた音楽には全くと言って良いほどに馴染みがなく、彼とベーシス
どうしても興味の湧かないバスケットボール、優越感と劣等感が交錯する歪なコミュニティ、理不尽な怒号に萎縮する自分、言われのない濡れ衣を着せられ、結果的に誰よりもチームに迷惑をかけている自分、それを誰にも相談しない自分、辞めることは逃げだと疑わない自分、それに勘づいて手を差し伸べることをしてくれない、自分以外の全て― 受験勉強が楽しかった。それまで塾では、部活の悩みに苛まれるか、ウトウトするばかりだった。引退する頃には劣等生になっていたが、ずっと音楽を聴いていられたし、何より地
スマホを手にしてからというもの、ひたすら音楽を聴く様になった。歌とコードの雰囲気から好きだと感じた邦楽を聴いていたのは確かだが、どういう共通点があるのかは分からなかったし、多少の素養が身に付いた今でもよく分からない。 ただ心の赴くままに、こういう心象、天気、気温、湿度、匂い、風景の時にはこういう音楽が聴きたくなる、という感性を信頼していた。音楽と他の感覚が結びつく感触が心地良くて、毎月聴いた音楽をメモに書き留めていた。僕は明日、22歳になる。感慨深いことに、これが習慣になっ
小学校を卒業するタイミングで、スマホを買い与えられた。世は大ドラゲナイ時代。周りの友達は既にiPod Touchを持っていたりして、みんなでセカオワに下品な替え歌をつけて笑っていた。 これでやっと音楽が聴ける。真っ先に違法アプリをインストールした。覚えればカラオケとやらにも行ける。人生は希望に満ちていた。周りでは太鼓の達人がブームのようで、DSで対戦したり、マイバチをショルダーバッグに忍ばせている友達も多かった。ゲーセンに小銭を落とすくらいなら塗料が欲しかった僕は、友達と居
小学校に入学した頃。第一世代K-POPアイドルが隆盛を極めていた頃。母親は例に漏れず、音源やMV、ライブ映像をテレビやパソコン、キッチンのスピーカー、カーステレオと、あらゆる時間にあらゆる場所で垂れ流していた。僕は既に音楽教室に通っていて、歌うことがトモコレ、プラチナと同じくらい好きだった。常に耳に入ってくるものだから、否が応でも口ずさんでしまう。7歳の僕にとって、それらと自分が弾きたいと選んだクラシックが音楽世界の全てだった。 母親が主に好きだったのは東方神起だった。知っ
この胡散臭い問を立てたのは、他人を思いやりたかったからとか、そんな高尚な理由ではない。納得のいく表現を突き詰めたかったからだ。無限の選択肢の中で、何故それを選んで納得するのか。何が好きで、何が嫌いで、何に心を打たれるのか。それは何故か。何に影響を受け、どう生きてきたからか。道化がすっかり板についてしまった身としては、どれも難解極まりない。iPhoneのクリアケースの内側がごちゃごちゃしていたり、カバンにキーホルダーをぶら下げていたり、好きなもので部屋が散らかっている人間なら即
1時間ほどが経過し、漸く扉の前に立つことが許された僕は、鍵を差し込み手首を捻る。するとそれまでせき止められていた大量の情報が流れ出した。それらが食べ物だとしたら、僕はバイキングで燥ぐ子供のようだった。夢中で貪り、中枢が破壊され、胃袋の容量が大きくなる。欲求が満たされる悦びが駆け巡り、色彩として顕現する。普段考えもしなかったこと。考えても答えが出ずに放置していたこと。扉の名は常識だった。 その後消化を待ちながら、友人を傍らに朝方まで食レポに明け暮れ、終いには声帯がちぎれ、声が
1つ前のnoteから続き、自由競争的資本主義が私達の価値判断に与える影響、その背景にある民主主義などを引き合いに、革命家を気取ったインテリの如く甘ったるい正義感について演説しようと思ったが、丑三つ時のいきすぎた妄想で自分を落ち込ませるのは自分の最たる欠点だということを思い出し、下書きを消した。 何も知らない癖に、何かを理解した気になるな。理解したいなら勉強しろ。それが嫌なら今やるべきことをやれ。 僕は自分に対して、似たような説教を何度も繰り返し生きてきた。課題に集中しろと
自分とは何なのだろうか。 名を名乗る時。考えや気持ちを述べる時。失態を反省する時。大勢の中で1人になる時。あの子にどう思われてるのかな、と気になる時。 自己啓発の根幹を成す軽率な問として知られているかもしれない。前提として、自分が何者かであるということを決め打ちした問である。 さっき寝室に入った、あの親に育てられた息子。この場所でこの時代を生きていて、昼間はあのコミュニティに属する人間。男。女。このようなカテゴライズを避けたとて、何者でもなければ答えは出ない。いや、それ