自分とは何か ⅶ
スマホを手にしてからというもの、ひたすら音楽を聴く様になった。歌とコードの雰囲気から好きだと感じた邦楽を聴いていたのは確かだが、どういう共通点があるのかは分からなかったし、多少の素養が身に付いた今でもよく分からない。
ただ心の赴くままに、こういう心象、天気、気温、湿度、匂い、風景の時にはこういう音楽が聴きたくなる、という感性を信頼していた。音楽と他の感覚が結びつく感触が心地良くて、毎月聴いた音楽をメモに書き留めていた。僕は明日、22歳になる。感慨深いことに、これが習慣になって10年目に突入するのだ。
6月、5時間目に夕立が降って、机は少し不快にベタついて、走り込みがミーティングになったらいいなぁ、と淡い期待を抱いていると、間もなく雲の隙間からオレンジが差した。下校の通学路、生憎汗を孕んでしまった半袖は何処かひんやりとしていて、今更になってコンクリートから立ち上るじめついた匂いが、捕食を喉に詰まらせて涙目になる僕をからかっていた。日が伸びたこの頃は、家路に着いたらすぐ塾に向かわないといけなかった。シャワーの後、毛先の生乾きを拭う暇もなく、自転車に跨った。さっきより幾分か薄暗くなったが、あんまり立ち漕ぎするとまた汗をかいてしまうから、遅刻に急かされることなくペダルを回した。その間の、ほんの10分にも満たない音楽体験が生活とコネクトし、僕に翼を授けてくれた。月日が巡り、以前聴いていた曲を聴くと、その日々の全てが呼び起こされて感極まってしまう。辛いことがあった日も、葛藤が止まなかった日も、音楽が何よりも、誰よりも僕を励ましてくれた。
いつしか、家電量販店に入り浸るようになっていた。初めて買ったイヤホンは1000円くらいの巻き取り式で、タッチノイズが酷く、音質、着け心地共に最悪だった。もっと音楽に集中できるイヤホンが欲しいと思い立ったのを皮切りに、オーディオアクセサリーの世界にのめり込んでいった。近所にある電気屋に置いてある機種を粗方視聴し、パンフレットは全種類持ち帰り、家で眺めるのが癒しだった。週末の部活が午前に終わる時は、横浜駅のヨドバシで遊んだ。交通費がかかるのは痛手だったが、それでも相応の価値を感じていた。遂には秋葉原に本店を構えるeイヤホンという専門店を訪れるべく、初めて1人で東京に行った。メーカーごとの詳細や特徴、ハウジングやドライバーユニットの構造、その違いによる音への影響など、事細かに把握していたので、店員との会話が盛り上がった記憶がある。
部活と塾で多忙を極めたが、合間を縫ってこうした趣味に明け暮れた。それでもクラシックピアノは続けていて、エレクトーンを含めると、計12年間、鍵盤の前に座っていたことになる。物心ついた頃にはそうしていたからか、自分にとっては当然のことで、熱量もあまり無かった。コンクールの1週間前だというのに毎度譜読みが終わらず、そこで漸く本腰を入れる。友達と駆け回っているところを引き上げてレッスンに向かうのが苦痛で、何度も忘れているフリをしてサボっては叱られた。母親が高い料金を支払っていることも知らず、やる気がないなら辞めるか、と幾度となく聞かれたが、その度に続けることを選んだ。自分から何か大きなものが零れ落ちてしまう気がして、怖かった。
コンクールの数ヶ月前になると先生が候補曲をいくつか提示してくれる。それを聴いて弾きたいと思ったものを選んできたが、曲名とか、誰の曲だとかには興味がなかった。部活の市総体や受験勉強が本格化し、向き合うにも向き合えない、歪な感情と共にあった12年間が、次のコンクールで終わりを迎える。僕はクロード・ドビュッシーの月の光を選んだ。母親はショパンの夜想曲第2番を望んだが、意に介さなかった。つくづく親不孝者だ。楽譜を貼っていたスケッチブックを遡ってみると、前回もドビュッシーのアラベスクを選んでいて、それ以前にも何度か弾いていたようだった。
昔からテンポに合わせて機械的に弾くのが苦手だった。家にグランドピアノがある本物の温室育ちが殆どの大会で、自分は電子ピアノ。ましてや練習を億劫に感じる自分が、“どれだけ譜面通りに弾けるか”を基準とする曲を選ぶ勇気はなかったし、当然上手く弾けず、フラストレーションを感じるだけだった。また、長調らしい曲も短調らしい曲も嫌いだった。アンニュイな奥ゆかしさを持つ、彼の曲に自ずと惹かれていたようだった。
先生はそれを汲み取って、1曲は自分が選んだもの、もう1曲は短めで比較的簡単な、縦のリズムが特徴的なものを選んできてくれていた。その意図にも気付かず、憧れのピアニストもいなければ、競争心も向上心も無く、優しい先生の傍らで涎を垂らしていた僕にとって、鍵盤の前だけは誰の価値観にも侵されない聖域だった。
このことは、自分の表現を模索する上で大きなヒントであることを示している。