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自分とは何か ⅱ


1つ前のnoteから続き、自由競争的資本主義が私達の価値判断に与える影響、その背景にある民主主義などを引き合いに、革命家を気取ったインテリの如く甘ったるい正義感について演説しようと思ったが、丑三つ時のいきすぎた妄想で自分を落ち込ませるのは自分の最たる欠点だということを思い出し、下書きを消した。

何も知らない癖に、何かを理解した気になるな。理解したいなら勉強しろ。それが嫌なら今やるべきことをやれ。

僕は自分に対して、似たような説教を何度も繰り返し生きてきた。課題に集中しろとか、Logicを開けとか。目の前のことに集中できず、抽象的なテーマに関する考えが止まらなくなってしまう。皮肉なことに、これを綴っている今が正にそうだ。合理的な結論が導けるほどの判断材料は手元に無いのに、延々と考える。これだけ賢くあろうとしている自分に類稀なる陰謀論者の素質があるなんて、これまた皮肉なことだ。

さて、自分とは何か。定義するならば、それは左翼的な正義でも、人間関係における哲学でもない。これらの価値判断すら、元を辿ると1つに帰着する。異常なまでの夢への執着だ。

他人と関わる時、どうやら僕は相手にとって都合のいいかたちをしているらしい。同級生、部活の顧問、両親、社会常識、将来の不安。自分を否定するこれらに傷つきながらも、道化を演じるのを止められなかった。誰からの期待にも答えること。何でも挑戦すること。兎に角頑張ること。そんな画一的な正義が多様性を否定するのだと気付いた頃には、既に20歳の誕生日を迎えていた。

僕は昔から、善く在ろうと藻掻いてきた。“意識が高い”と揶揄されるかもしれないが潔く認めよう。自分の価値観に忠実でないと気が済まないのだ。然し、価値観にアップデートが起これば、過去の自分はいとも容易く否定される。

僕の夢は、完璧な人間になることだったのか?それは不可能だ。自分の至らなさに打ちのめされ続け、辿り着くのは凡庸な秀才だ。生活には困らないかもしれないし、家庭を築いているかもしれない。そして自分の子供にもそうなることを強いる。“お前の為を思って”と。そうして育てられた僕は、どうしてこんなにも自分が嫌いなのだろう。どうして他人に脅えて取り繕ってしまうのだろう。



2年前の春、僕は迷宮の扉を開く鍵を、口の中で転がしていた―



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