何度でも
経験を教訓に。
東日本大震災の地震発生から津波に遭って逃げるまで。
だいたい1時間の間で見たことを改めて書いてみます。
災害が起こって、悲しいことが起こる。時間をあの時まで戻したい。
そんなことを考えてしまいます。
自分の経験が、少しでも、誰かの“間一髪”に役に立てばと思います。
私は宮城県石巻市の地域新聞社で働いている。
東日本大震災が発生した当時は記者だった。
あれから何度、この日付をパソコンの画面に打ち込んだだろう。
2011年3月11日。おだやな午後だった。
14:35
会社の机でコラムを書き終えたところ。
2日前の3月9日に三陸沖で地震が発生し津波が起きていた。
石巻市には50センチの津波が発生し、海中の養殖施設が絡まり合うなどの被害が出ていた。コラムでは「忘れたころにやってくる災害に注意しよう」なんてことを書いていた。あと10分でものすごい災害が起こるなんて知る由もない。
原稿データを“名前を付けて保存”して、編集長に提出。
ひと息つく。
ブラインドが春の日差しで暖かく光っていたことを覚えている。
3月の歓送迎会シーズン。
あの日は、お世話になった取材先の転勤者と2人で酒を飲む約束だった。
「さてさて、どこに行こうかな♪」とネット検索を始めた時だ。
その時がやってきた。
「ゴゴゴゴゴゴゴ!ガ!ガ!ガ!ガ!」
14:46
東北地方太平洋沖地震の発生
のちに確認したところ、揺れは3分ぐらい続いたという。
建物が倒壊するとか、テレビが飛ぶとか、阪神淡路大震災の再現ドラマやニュース映像などで見聞きした驚異的な揺れではなかった。ただ、それまでに体感した中で最も大きい揺れとごう音だった。
まったくおさまる気配がなく、ずっと続いている。車のギアが段階的に上がっていくように、明確な区切りをもって規模が大きくなるような。
少し前までは、締め切り後の少し気だるい空気だった会社の編集室。
机がゆっさゆっさと揺れる。
「これはこれまでの地震とはちょっと違うぞ。」
デスクトップパソコンのモニタを押さえながら、柱が暴れるように揺れ、天井板を破壊するのを見ていた。
「これが宮城県沖地震か?」と、ものすごい揺れぐあいに、半ば感心しながらそう思ったことをおぼえている。
当時、今後30年以内に〇〇%の確率で発生する。と言われていた宮城の災害がついに来た。そう考えたのだ。
「確か最速8分で津波が到来するんだっけ?」
それ以前に取材した付け焼刃の知識も頭に浮かんだ。
なんとかおさまった地震だったが、地域一帯はすぐに停電した。
携帯はガラケー。情報収集もままならなかった。
それでも記者としてのセオリー仕事が始まる。
会社向かいのコンビニに行き、中の様子を確認する。散乱したようすなどを撮影させてもらった。石巻市の防災行政無線によるサイレンと大津波警報の発令を確認した記憶がある。
「さて次」
津波が来る際のお決まりの撮影場所は、旧北上川河口にある検潮所だ。紅白の定規のような目盛りが、岸壁から水面に下がっている場所がある。
ここに潮位の状況などを消防団の方々が確認に来るはずなので、それを写真に収めに行くのが地元紙の定石といえる動きだった。そこで撮影した写真を、翌日の紙面で使う。写真説明は「潮位の変化を確認する消防団員」。そんな感じだ。
通常の地震ではないという違和感はあったが、危機感はなかった。
数百年ぶりの規模の災害が発生したのに、頼るのはわずか30歳の自分が生きてきた経験だ。
世界的に地震が多いとされる東北三陸地方の沿岸部といっても、石巻市(市街地)は過去、記録に残っている津波の被害は多くなかった。
平地が広がっており、津波という災害は、防波堤や港など、海や川まで数メートルという部分で起こるものという意識。まして大津波の襲来などは、頭にはなかったためだ。
そう。「大津波」
東日本大震災を経験した前後では、この言葉に対する認識は異なる。
下図は、震災の地震発生後すぐに発表された気象庁の津波警報の画像だ。
宮城県は赤色の部分。「大津波 高いところで3m程度以上」という凡例。
結果的にも、今見ても、気象庁の発表に間違ったところはない。
出典:気象庁ホームページ https://www.data.jma.go.jp/svd/eqev/data/tsunamihyoka/20110311Tohokuchihoutaiheiyouoki/04_03_00_20110311145000.png
間違ったところはないが、
ここで油断が生じてしまう。
・高いところで
・3ⅿ程度
自分にとって都合の良い情報だけを信じてしまうのが人情というもの。
「3m程度」の後ろにあった「以上」の文字は見えていないし、見る気もない。むしろ仕事の邪魔。
経験則からの間違った判断。ひとつめ。
「高いところで3mだったら、石巻は1mぐらいかな。」
言い訳をさせてもらえば油断を誘う事象もあった。
この時から約一年前のこと。2010年2月に発生したチリ地震津波だ。
南米チリで発生した大地震で発生した津波が三陸沿岸に押し寄せたアレだ。
もはやあまり覚えている方もいないと思う。
そのチリ地震で、「大津波警報」が発令されていたのだ。しかし、石巻市での津波は高さ数十㎝だった。
この時も夜遅くに旧北上川河口の検潮所付近を訪れ、消防の写真を撮影した。
たまたま、運よく危険の方から自分を避けてくれたのを、いつしか「自分のギリギリ判断によるお手柄」、中学生の武勇伝のような危ういものとなっていたように思う。
そのような頭で、2011年の大地震の後も河口に向かう自分。
もちろん、あれだけの地震。津波の到来を考えなかったわけではない。最初は日和山という、海が見える高台に行って待機した。しかし、待てど暮らせど、潮は引かず水位も変わらない。遠くの沖を見ても静かで何かが起こるような気配はない。15分が経ち、30分が経ち、避難する人が増えるだけ。
「津波がくるなら最速8分だったはずだよな。」
もうすぐ1時間というところで、ふたつ目の間違い。
「もう大丈夫じゃないか」と、またまた都合の良い判断をしてしまう。
「ここにいては写真を撮れない」
「明日の紙面の現場写真が必要だよな」
そう思い、海に向かって車を走らせた。
数分で河口に到着し、検潮所や川から沖に向かう船などを撮影。途中、雪が降ってきた。高台へ避難する車が渋滞をつくっている。警告灯を回した消防車からは、大きな声で避難を呼び掛ける声が聞こえる。
車に戻る途中、
道端で避難を迷う見知らぬ高齢者夫婦から声を掛けられる。
「避難した方が良いんだべね?」
「すぐに山に行った方が良いですよ。日和山に大勢が避難していました」と高台へ行くよう促す。
他人には避難を呼び掛けながら、自分は危険ではないと思っている自分。すぐに単なる思い込みだということがわかるのだが。
駐車場の車に戻った。
とりあえずの保険になる写真は撮影した。
「さて次はどうするか」
少しでも海面変動を撮りたい。
高さがある橋の上からだったら、見えるかもしれない。
そう思って、ハンドルを握った。
今思えば、まったくの無謀。
避難をしようと渋滞する車列と反対方向に、自分の車だけが進んでいく。
海まで50mというところだった。自分にとって初めての“想定外”に遭う。
正面から堤防を越えた波がこちらに向かってきたのだ。
「ん?波?」
ただし、まだ危険だとは思っていない。
堤防を越えた津波は、数㎝の高さだった。
おだやかな日の砂浜の波のような。
スーーーっと近づいてくる。
「うーん。車を塩水(海水)で濡らしたくないな」
そう思ってUターンをすることにした。
よく考えもせずとった行動だったが、
それが結果的にぎりぎりで自分の命を救った。
とりあえず来た道を戻る。
交差点に差し掛かり、ふと、視界に入ってきた車のバックミラー。
それに見た光景は一生忘れないだろう。
1分?いや数十秒前まで、穏やかな浜の波だったはず。
それが、わずかな間にアスファルトをめくり、
コンクリの堤防を引き倒す威力となっていた。
海底のヘドロを含んだ真っ黒な水の塊。倒壊させた家々のガレキとともに、勢いよく自分の方へ迫ってくる。
とにかく逃げる。逃げる!
渋滞は避け、かといって一方通行は逆走しないように。
少しでも高台へ。
というか、あれから離れないと!
道の先が渋滞している!
これ以上は車では無理!
空き地に車を置き、エンジンを切って外に出る。
全力で高台に駆け上がった。
波というか、自分を飲み込もうとする家や車に追いかけられる。
間一髪。
振り返ると、自分がさっきまでいた場所で、そこら中の建物が浮き上がり、そして回転していた。世の中が壊れてしまったように感じた。
海から数百㍍離れた高台が波打ち際になっている。
「これが津波?」
「ここまでのものとは聞いてないよ」
これは、決して「助かってよかった」という自慢ではありません。
何度も避けることができた瞬間がありながら、津波に向かっていったという記録です。
あの日、亡くなってしまった、お一人、お一人は、誰もが、あんなモノに襲われるとは思っていませんでした。
自分はたまたま助かっただけです。
この経験を生かしてもらうとすれば、海から近い場所にいて、避難できる高台が無い場合、すぐにその場から離れること。
津波の高さ予想も、あてにならない。自分がいる場所の高さによって異なります。そして自分のいる場所の高さは、地震によって低くも高くもなる。
過信とは言えないような、一つひとつの小さな判断ミスが大変な状況を招いてしまう。
ここまで読んでくださった方に、もう一つだけ。
大きな津波が来る前は、地震があったり、なかったり、様々な種類のきっかけがあります。2011年の東日本大震災を振り返って気づいたことがありました。あのマグニチュード9.0の巨大地震の後、多くの人が建物の中にいることを嫌い、外に出ていました。
想像してみてください。ものすごい地震。ほこりっぽい室内。外ではサイレンが鳴り響き、携帯からは不穏な警報音が鳴る。
天井が崩れたり、蛍光灯がぶら下がったり、色んなもの倒れている室内でじっとしていられるでしょうか。
冷静な判断をすることが難しい状況になります。
東日本大震災では、石巻市の市街地は約1時間で津波が襲来しました。しかし、条件によっては数分で津波が来る場合もあります。その時、せっかく丈夫な高い建物にいたとしても外に出ていたら?多くの人が流されてしまうでしょう。
一方では崩れそうな建物に居続けるのも危険なことです。
何が正解で何が不正解か。それは結果論でしかないですが、瞬間ごとにあきらめず、命が助かる行動をとる。
普段いる場所で起きうる災害を想定し、この時間に災害に遭ったらどうするか。という想定ぐらいはしておいた方が賢明ですし、有事の際に、文字通り懸命にならず済むかもしれません。
分かり切ったようなことを長々とですが、間一髪の差。それが自分の命を助けるか否かの差となります。たまにでもいいです。考えてみてください。
今後、私たちの体験は歴史に埋もれていく。
だからこそ、何度でも。
我々の悲しみを教訓に。