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飛行機の本#5ヒコーキ野郎たち(稲垣足穂)

サン・テグジュペリの本が続いた。相対する日本の作家としては稲垣足穂(別名イナガキタルホ)を紹介したい。

稲垣足穂は『一千一秒物語』、『少年愛の美学』などで知られる日本の小説家である。同性愛やシュールをテーマとした異端な作品で文壇にはあまり知られていなかったが、三島由紀夫が「もっと稲垣足穂は敬意を持って見られるなければならない」と称した。佐藤春夫の家に居候になっていたが、その佐藤を罵倒し大喧嘩をして出ていくというエピソードがある。大阪船場の裕福な家に生まれたが、放蕩の末に家を潰し、京都で妻とともに極貧の暮らしをした。当時のエッセイに、友人がきたので三日三晩酒をひたすら飲み続けたというのがあり、そんなにも酒を飲み続けられるのかと印象に残っている。何に書かれていたかは思い出せない。アルコール中毒であったという。

なぜ、この稲垣足穂がサン・テグジュペリに相対するのかというと、同じく1900年の生まれであり、飛行機と文学が好きであったということかな。もちろん世界的な文学を生み出したサン・テグジュペリと比べることはできないのだが、異端の作家だった稲垣足穂も実は飛行機が大好きで、飛行機に関する文章はストレートでひたすら飛行機愛に満ちているのだ。それがこの『ヒコーキ野郎たち』である。しかし、この書名はなんとかならんかな、センスなさすぎだ。発刊当時(昭和60年)に作られた映画の題名を持ってきて便乗させようとした編集者の意図ではなかろうか。もっとも内容は文学ではなく、飛行機愛に満ちたエッセイだから仕方ないか。稲垣足穂が肩の力を抜いて飛行機に関するエッセイを楽しみながら書いている。それはそれで面白い。書かれた時代は戦後なのだが、やはり黎明期の飛行機の思い出話になる。

備前岡山の表具師幸吉からロケットのブラウン博士まで初期の頃の様々な飛行機や飛行家、製作者の話が出てくる。いや、飛行機だけでない汽車、大阪せんばの巡航船、「フォード」を真似た三気筒自動車、A型模型飛行機、映写機など当時流行の最先端だった機械や器具がエッセイの中で飛び交う。はじめ「スコロク」という単語がわからなかったが「スクリュー」のことと気付いた。飛行機の話ではとりわけ、モラヌ・ソルニエとスパッド機の話に長文を割いている。

スパッドⅦ
フランスのスパッド社が開発した第一次世界大戦時の戦闘機。高速戦闘機として活躍した。機首のエンジン部分(アルミ製)以外は全木製構造で、麻布製の外皮を貼っていた。洗練されたスタイルで、150馬力から200馬力までのイスパノ・スイザ製エンジンとの相性がよく、高性能であった。そのため世界中の軍隊で採用された。

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サン・テグジュペリと同年の稲垣足穂も生まれたばかりの飛行機に憧れを持ち、学生時代から飛行機愛に満ちていて「飛行画報」という同人誌を作った。そして卒業すると、できたばかりの日本飛行機学校の第1期生に応募するも近眼で入学することができなかった。その後は、複葉機を作る仕事につきながら文学で道を切り開いた。もしも、サン・テグジュペリのように実際に飛行家になっていたら、空から見た地球の景色をどのように表現しただろうか。しかし、「イナガキタルホ」は、隠微な世界を題材として文学を構築した。

あの「イナガキタルホ」が飛行機愛に満ちたこのようなエッセイを書いているのだ、一読する価値は十分にある。

稲垣足穂は、1900年12月26日に大阪市船場に歯科医の次男として生まれた。7歳の頃から謡曲、仕舞を習っていた。小学生の時、祖父母のいる明石に移住し、神戸で育つ。1914年、関西学院普通部に入学。関西学院では今東光と同級であった。

神戸は当時、そのような新しい文明の風がいち早く流れていたのであろう。同じ頃に白洲次郎もそこにいた。稲垣足穂も白洲次郎の自動車に乗ったことがこの本に書かれている。

「この頃、白洲二郎君の自動車に乗せて貰ったことがあった。先方は県立一中のカーキ色の制服をきちんとつけた貴族的な少年であった。なんでも午後遅く、前ぶれもなく彼の運転するオープン・カーが表に横付けられたので、那須と僕はその後ろに乗って夕方のトアロードを下り楠公東門の傍の材木屋まで行ったのだった。僕は車の上で待っていて、那須が下りて注文しておいたボディー用の檜の角材四本を受け取り、尾長鳥になった自動車で再び家の前まで送られてきた。白洲君は一中卒業後にフランスの飛行学校に行くのだという噂があって、僕は自分など及びもつかない話だとあきらめる以外はなかった。しかしあのいっこく、彼は言葉少なで、われわれの飛行機に別に関心があるようでもなかった。僕は四年生の夏休みの終りに外出先で急に足が痺れ、匍うようにして帰宅したまま秋おそくまで休校しなければならなかったが、この折に同級生間には僕はいよいよ飛行機に乗りに行ったという風説が立っていた。ちょうどこれに似て、白洲君の自動車をたねに誰かが勝手に思い付いたことであったように思われる。」

ここで出てくる「那須」は、那須徳三郎のことで、稲垣足穂と那須徳三郎と共に壊れた飛行機を手に入れ、自分たちで修復し飛ばそうとしていた。しかし、プロペラが回っただけに終わる。「白洲二郎」は白洲次郎であり、当時の写真も残っていて、白洲次郎の関連本でみることができる。ナンバーに「兵」の文字があるペイジ・オートモビルのグレンブルックで、父親から買ってもらい友人たちを乗せて神戸界隈を走りまわったという。この時は、材木を運ぶのに駆り出されたのだろう。相当のやんちゃだったらしく日本に置いておけないということで、フランスではなくイギリスのケンブリッジ大学で学ぶことになった。

白洲次郎は、1902年生まれで日本の実業家。戦後の日本の立て直しに吉田茂の側近として活躍した。東北電力の会長などの重職を歴任、1985年に83歳で亡くなった。妻は、随筆家の白洲正子。白洲正子は世阿弥と両性具有の研究テーマとしていた。「両性具有」は稲垣足穂と通うテーマでもある。

白洲次郎は占領時代にマッカーサーと対等に張り合い、昭和天皇のクリスマスプレゼントを届けた際の扱いに対してマッカーサーを怒鳴りつけたというエピソードも持っている。英語がうまいと言われたら、君も勉強したら自分のように上手くなれるだろうと言ったとか、逸話に欠かない。いまだに彼を超えるカッコイイ日本人はいないだろうと思う。自分のことは資料を残さず始末してしまったので一次資料はほとんどなく、謎が多いという。しかし、白洲次郎の本はたくさん出版されているので、未知であったらぜひ一読を。

白洲次郎邸は博物館になっている
https://buaiso.com

昭和二十年代にTシャツとジーンズをラフに着こなしていた白洲次郎の写真がある。本の表紙にもなっていてよく知られた写真である。この当時の職業は自称百姓(実際に農業をしていた)時々政府の相談役である。カッコ良すぎないか。

稲垣足穂の話が白洲次郎で終わってしまった。まあ、少年期を同じくしたオイリーボーイということで。

『ヒコーキ野郎たち』
稲垣足穂
昭和60年 河出書房

『一千一秒物語」
稲垣足穂
1969  新潮社

『少年愛の美学』
稲垣足穂
1986 河出書房

『プリンシプルのない日本』白洲次郎
2001年 メディア総合研究所

『白洲次郎 占領を背負った男』
北康利
2005年 講談社

『レジェンド伝説の男白洲次郎』
北康利
2009年 朝日新聞出版

『白洲スタイル』
白洲信哉
2009年 飛鳥新社

『白洲正子自伝』
白洲正子
平成11年 新潮社

『両性具有の美』
白洲正子
平成15年 新潮社




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