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【後編】『改元』刊行記念対談「小説という自由(をもう一度獲得するために)」 畠山丑雄×樋口恭介 @正文館書店知立八ツ田店
畠山丑雄著『改元』刊行記念対談第1弾「小説という自由(をもう一度獲得するために)」の模様を、前篇・後篇に分けてお届けします。
SF作家・樋口恭介さんをお招きし、本作の魅力はもちろん、著者・畠山さんの問題意識、お二人のデビュー前夜や小説作法、そして小説というものの未来について、熱い対話が交わされました。
前篇はこちら。
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◆「管」にすぎない人間/二人の小説作法
樋口 今の話は、土地という畠山小説のベースになるものと、名前という言語象徴と、移動によって流れが分岐していって、その先で象徴が実体性を帯びていくという話と完全に一致していたように思います。畠山さんは、すべての発言に身体感覚と言語感覚があるような気がしますね。その感覚はなんなんだろう。
畠山 僕はお酒が好きでよく飲むんですが、大学のサッカー部の友達と飲んでいて、あるところまでいくと話が尽きるんですよ。そうすると、酒や食べ物が主で人間が従になる。僕はよく「管感」という表現を使うんですが、要するに人間は口から肛門まで一本の管で、その周りに肉がついているだけの存在。だから人間が自分だと思っている部分は、主部と修飾部でいったら修飾部なんです。お酒を飲んで楽しくなると、それがよく分かる。よいお酒を効率的に通すためだけの存在、美味しいご飯をよく通すためのおしゃべり、という状態が好きです。
樋口 「改元」では、あやめを運んだ在原業平や、龍が時間を超えて人の想像力に身を宿すという話でも、人間はずっと乗り物でしかない。人が龍という宇宙の意志のようなものに通過される媒介者にすぎないということと、お酒を通す管でしかないという卑近な話が畠山さんの中でつながっているのが面白いですね。
畠山 自分を明け渡しているような感覚があるのがよいですね。
小説を書いている時もそうなんですが、自分の意志や気持ちで書いていると当然恣意的なものが出来上がってくるんだけども、書いているうちにどこかでそうではなくなる。そういう瞬間が気持ちよくもあるし、よく書けていると思う瞬間でもある。そういうことと、お酒を飲むときの感覚は確かにつながっているという感じはします。
樋口 小説家にも大きく二流派あって、小説が勝手に動いていって自分は媒介者にすぎない派と、徹頭徹尾コントロールしないと創作者としてプロじゃないという派に分かれていて、SFとかミステリには後者が多いという気がします。身体偏重か精神偏重かで作家性が分かれるというか。
畠山 実態としては、行ったり来たりしているんじゃないでしょうか。僕も身体まかせ勢いまかせにやったら話が空中分解してしまうんだけれども、そうやって書かないと見えてこない部分もある。プロットは作らないんですが、やっぱりここはおかしいなというところが出てきたら、一度突き放して俯瞰で見るということはします。コントロールする自分と、ワーッといく自分を交互にやっているという感じですね。樋口さんはちなみにどっちですか。
樋口 僕は何も考えていないことが多くてですね……。ある面白いアイデアとか、新しく勉強したことでフィクションとして残しておきたいことをひたすら書きまくる。小説として、それらが上手いことつながらんかなという操作をちょこちょこやっているという書き方です。だから実は、どっちでもない。きれいな図式を書きたいわけでもないし、身体的に小説が勝手に動き始めるまで地慣らしをしますという感じでもなくて、小説で書かなくてもいいことをエッセイとかノンフィクションみたいに書くとなんか物足りないから、小説という形式を選んでいる。だから、やりたい放題ですね。
畠山 樋口さんの『構造素子』という作品もそうですが、でっかい家みたいな小説なんですよね。いっぱい層があって、各層の中に人が動いていて連関しあうんだけれども、その構図がバーンと出てくる印象がある。
樋口 昔は真面目だったので、まず遊園地を作るみたいに、なんとなく書きたいことに向いた土地探しから始めて、ここにはこういうものを置いて、という全体の地図みたいなものを決めて、個々のコンテンツは何を書いても大丈夫な状態を作ってから書き始めて、最終的には「テーマパークです」という感じで完成する、ということをやってました。
畠山 確かに樋口さんの作品も、最初に場所がある気がします。
樋口 最近は不真面目なので、それもやらないです。メリーゴーランドみたいになったからメリーゴーランドを書いて、ジェットコースターみたくなったからジェットコースターを書いて、「え、これらがくっつくんか!?」と思いながらやっていたらくっつかない、みたいなことをずっとやってます。
◆小説という自由とその基盤/デビューまでの歩み
畠山 樋口さんも僕もわりと自由に小説を作っていて、その自由の代償として失敗したり、今のトレンドにはまったく乗らないものが出来ちゃったりする。
樋口 乗らないですね。乗っても無視される。
畠山 という問題があるんですが、なんでそんなことができているかというと、簡単な話で二人とも小説以外の稼ぎがあるからなんですよね。それが大事なところで、小説が手段なのか目的なのかということだと思うんです。僕も樋口さんも、うまくトレンドに乗って賞をとってテレビとかに出たりしたら、本も売れて承認欲求も満たされて嬉しい!となると思うんです。実際、頑張ってそっちを目指そうと思ったこともあったんですけど、結局寄せられないんですよね。
樋口 寄せられないですね。僕ももともとパンクロックとかノイズミュージックをやっていたりしたので、自分が好きな芸事で身を立てることは不可能だろうという感覚がずっとありました。
アンダーグラウンドな音楽のシーンって、売れるわけがないんですよ。売れないのが前提なんですけど、ハマっちゃったからしょうがない。それでいて、みんな楽しんでるわけでもないんですよね。誰にも認められないし、家族からは嫌われるし、自分も耳がどんどん悪くなっていくから、なんでやってるのか分からない(笑)。でもそういう人間なんだということを引き受けて、誰も聞かないライブとかをやっている。それは苦しいんだけど、やっぱり楽しいんですよね。
畠山 楽しいですね、それは。
樋口 そういうものの一つに、小説がある。自分が勝手に好きでやっている……書くのは苦しいから好きでもないんですが、もう何かを読んで、考えて小説に書くという生活スタイルになっちゃっているから、歯磨きとかと同じでやらないと気持ち悪い。こういう大人の渋みみたいな段階に入ってますね。
畠山 売れている人は自分の経済状況と生活スタイルがマッチするから、そこはあんまり考えなくていいと思うんです。書いたらお金が入って、もっと書く。僕らはそうじゃないから、続けていくのは意志の力では無理なんですよね。惰性とか諦めです。しばらく書かずに過ごしてみるかと思っても、二、三日したら新しいアイデアが湧いてきちゃって、書かずにいられなくなって毎日読んで書くに結局戻っていくことになる。
樋口 仕事中とか困りますよね。書かないとそわそわしてしまう。
畠山 やめる方が苦しいし、難しい。
樋口 たしかに。煙草とかとかなり近い。あんなのなんで吸ってるかわからないのに、「ここで一本吸わないと午後乗り切れない」という感覚が一回頭をもたげるともう吸わないといけないというのが喫煙者あるあるなんですけど、小説にも「この後ミーティングが詰まっているんだけど、今ここでメモっておかないと思考が奪われてしょうがない」という時がある。そういう時はトイレとかでメモって、一旦このメモにゆだねたから忘れていいということにして、仕事に戻る。
畠山 書きたいことが三つか四つ常にたまっていて、それを出力する時間をどうするかが困るんであって、書きたいことがないということは基本的にないですよね。
樋口 畠山さんは喋りとフィクションが完全に一致するようなナラティブを展開されているので、喋りながらでも「あ、これ書きたいな」というものが出てくると思うんですが。アイデアは絶対に尽きないので、常に「俺を書いてくれ!」という亡霊が後ろにいるような感じですよね。
畠山 ちょっと債務者みたいな気分です。
樋口 全ての小説家は債務者です。憑りつかれている。
畠山 ある意味、書くということの自由はシンプルにそれで商売していないということにもあるのかなと思っています。
樋口 本屋さんで言うような話ではないかもしれないんですが、小説で生活が成り立つということ自体がちょっとおかしいと思っているところがありますね。ノイズミュージックの世界では知らない人のいない非常階段というバンドがあって、そのメンバーがやっているINCAPACITANTSというユニットは、一人は銀行員で一人は公務員なんですよ。ノイズで食えるわけがないから、好きなことを続けるための生活基盤として仕事を続けているということでもあるし、仕事をちゃんと続けるという安定感とリズム感が生活にないと、突拍子もないことが思い浮かんでこない。安心していないと危険なことができない、ということだと思います。
畠山 ルーティンが必要というのは他の作家の方もよく言ってますね。アイデア自体が日常的なものに対するノイズであって、ノイズということはメインがないといけない。メインがないとノイズも出てきづらいし、出てきてもノイズなのかどうかの感じ分けも曖昧になってくる。人によるとも思うんですが。
樋口 確かに。畠山さんは大学在学中にデビューされているので、僕が今から話すエピソードとは対比の関係になると思うんですが、僕は小説がずっと好きだったから、そういう人間の常として大学時代から小説を書こうと思っていたんです。結果社会人三年目くらいのときに初めて書けて、それでデビューしているんですが、それがなんでなのかと振り返ってみると、大学生の頃は本当に将来が不安だったからだろうと思い至ったんです。就職できるのか、生きていけるのかとかずっと考えていたし、バイトも辛くて金がないという感覚が自分の九割を占めているという感じだったんですね。そういう人間が書く小説って、だいたい「金がない」とか「社会マジでカスやな」という小説じゃないですか。面白くないんですよ。
畠山 定型ですからね。
樋口 ところがサラリーマンになって三年くらい経って、自分が社会で何ができるかとか、自分でもなんとかいける部分があるんだなという感覚が掴めてくると、なんかめっちゃ抽象的なことを考えるようになった。仕事で生活をしつつ、その一方で安心している脳を使って抽象的なことを考えて小説にしていった時に初めて、「俺、今すごいデカいものを書けてるな」という感じが生まれて、今に至っているんですよね。
畠山さんは大学在学中にデビューされていて、しかもガルシア=マルケスのようなことができているわけじゃないですか。それは何なんだろうというのが気になります。
畠山 僕の場合は大学の部活動がルーティンでした。授業には全然出ていなかったので七年勉強させてもらったんですけれども、そもそも小学校から高校までずっとサッカー部で、活字の本は大学に入ってから本を読み始めたんですね。「文学部に入ってしまったから本読まんとまずい、馬鹿にされるしモテへん」と思って。親父が読書好きなので「何読んだらええ?」と聞いたら、「ほならこれや」と渡してくれたのが、レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』とヴァン・デル・ポストの『影の獄にて』と『エリック・ホッファー自伝 構想された真実』の三冊だったんです。
樋口 めちゃくちゃ面白いですね。
畠山 それを読んで「めちゃくちゃ面白い!!」となったんです。本を読んだ感想として「泣いた」というのは好きじゃないんですけど、初めて本を読んで涙が出たという経験があって、本を読み始めた。基本的にサッカー部の人間なので、練習は毎日あるんです。体を動かしてへとへとになって、寝て起きて授業に行かずに小説を読んで考えて……を繰り返すというのをずっとやってました。五回生の時にデビューしているので、サッカー部の同期は、四年の時の合宿所で僕が小説を書いているところを見ているんじゃないかと思います。
樋口 周りに小説を書いていることは言っていたんですか?
畠山 いや言ってないです。なんか書いてて、なんか留年してる奴という感じでした。だから、部活がなくなったあとの方がきつかったですね。時間もあるし疲れてないのでなんでもできるぞと思ったら、意外と何もできなかった。四回生から七回生までの三年間はなかなかいいものが書けなくて、もうひとつ縛りが必要な人間なんだなとその時思いました。
樋口 エリック・ホッファーの生き方と通じるところがありますね。彼も労働者としての軸があって、そこで見聞きし体験したことを書くことに注ぎ込んでいた。
畠山 ホッファーは季節労働者ですからね。
樋口 今お話を伺っていて思ったんですけども、本来文筆業ってそうあるべきかもしれないなとも思いました。「小説家」って何?という話じゃないですか。
畠山 本当にここ半世紀ぐらいが幸運な時代だったのかなと思いますね。それは素晴らしいことだし、大手出版社もよく頑張ってくれて、純文学という基本的にあまりお金にならないものを本当に大事なものとして通してきてくれた。それがこれからいよいよ難しくなってくる。でも純文学的な、あまり人が読まない分かりづらいものを好きな人は千人くらいはずっといるんではないか。だから書く人が自由になる必要はまったくなくて、頑張って仕事をして自由に小説を書いて、そういうものを読んでくれる人たちとある種の文芸共同体的なものを形成していく方向にいくのかなと思います。あんまりコミュニティっぽくなっても、閉じてしまってよくないと思うんですが。
あるいはパトロンを探すにしても、たとえば現代美術を蒐集している超富裕層の個人に見込んでもらうというのは難しい。なぜかというと小説は所有しているだけでは無価値で、読まなければならない。そこが一点ものとして所有することに意味がある美術との違いだと思います。
◆古典作品の「強度」の正体/量が質になる文体
樋口 今思い出したんですが、最近松下隆志さんが邦訳して紹介されたマムレーエフというソ連の作家がいて、この人はゴリゴリに統制が効いているスターリニズムの時代の人なんです。
ソ連は家族を解体して、共同住宅というアパートに赤の他人同士を詰め込んで「この区画の労働者はこの建物のこの部屋で同居して働きなさい」という完全管理をしていたんですけど、このマムレーエフは本当に変人で、その共同住宅でぶっ飛んだ辻説法みたいなことを始めるんですよ。喫煙所とかで。
畠山 だいぶ困った人ですね。
樋口 それでだんだん「マムレーエフの話、面白いね」となって、集まった人たちでオカルト勉強会を立ち上げるんですね。そういう関係の本はもちろん禁止されているんですけど、申請すると地下にある禁書も何分間か読ませてくれる。で、そのサークルのみんなで図書館に出かけて行って申請書を書きまくって、並んで禁書を読んではメモって、喫煙所でオカルトの話をして……という活動をやっていく。
その人の代表作の『穴持たずども』(白水社)は、暴力とオカルトと謎の陰謀論みたいなものにあふれた訳の分からない小説なんですけど、ソ連みたいなガチガチな体制下でも異常人間というものは生まれ、異常サークルが形成され、異常活動が可能なんだという勇気を与えてくれるすごい作品です。
畠山 僕はそういう変な本が残り続けるということは楽天的に考えています。なぜかというと、小説にしても映画にしても、ちゃんとしたものを作ろうと思ったら現代のものを参照してもできないんですよ。多分樋口さんも小説を書くとき、現代の小説を見て書こうとは思わないですよね?
樋口 現代の小説はほぼ読んでないです。
畠山 そうだと思うんです。書評とか対談とかの仕事がある人は、責務として同時代のものを読んでいると思うんですが、僕も基本的には現代小説は読んでいません。現代のものは現代の人間に本当に深いところでは力を与えない。あんまり言うと、じゃあなんでお前書いてるんだということになって自分の首を絞めることになっちゃうんですが。
樋口 あれはなぜなんでしょうね。最近『罪と罰』をまた読んだんですが、マルメラードフがボロボロになって訳が分からないことを言っているのが本当に胸を打ったりする。
畠山 ちゃんと味わうためには距離が必要なのかもしれないですね。すごい作品は射程が長いので、近いところにいる人の頭上を通り越してしまうんじゃないかとも思っています。
樋口 何かを学びたければ論文を読めばいいし、ある出来事について知りたかったらノンフィクションを読めばいいのに、なぜフィクションを経由する必要があるのかという問題と近い気がします。フィクションを介していないと、直接書かれていない、情報の羅列と自分の意識の中で醸成される真実に気づけないとずっと思っていて、それがフィクションの存在意義なのだろうと思います。フィクションの中でも論文とかノンフィクションに近すぎる形式のものは、その喚起力が相対的に弱く感じる。
『罪と罰』は我々から時間的にも離れていて、登場人物も多様で、しかもそれぞれがめちゃくちゃ喋る。そういう今の感覚とは遠い小説を読むと、経由すること自体の喚起力というものがあると思います。
畠山 もちろん近いものから受けとるものもあるんですけどね。遠いものから受けるものの方が豊富だというのは誰しもが言う。
樋口 多分、遠いものを読むことの方が脳に対する負荷が高いからだと思います。人間は意味や象徴から逃れられなくて、書かれているものが自分にとってどうなのか、という風に読んでいってしまうと思うんですが、作家は意味以外のスタイルの部分を情報として読む訓練を経てきているから、あまり意味とかは追わなかったりする。でもやっぱり人間だから、不可避的に意味を読んでしまう。
その時に、自分から遠ければ遠いほど「これってどういう意味なのかな」と読みこんでいく距離が長いから、想像力の負荷みたいなものが強くかかる。負荷がかかると、脳にいいじゃないですか。記憶にもよく残るから、そういう気持ちよさはあるのかもしれないですね。
畠山 確かに、即物的に言うとトレーニングみたいなところはあります。
樋口 「現代の小説には昔のものと比べて深みがない」というのはクリシェとしてある。でも、それはテキストそのものに深みがないんじゃなくて、脳が感じる深みがない。つまり自分の感覚と近いものが近いスタイルで書かれているから、脳が感じる負荷としての深みは必然的に生じづらいんだと思います。
畠山 近いものだと、「これをなんのためにやっているのか」が直接的に見えてしまう。それ自体が悪いわけではないんだけど、曖昧な言い方ですが強度が下がるような気がします。
僕が好きな話なんですが、戦中の軍部は、谷崎潤一郎の『細雪』をめちゃくちゃマークしていたらしいんですね。『細雪』ではお見合いの話や楽しい四季の催しがあったり、災害が起こったりとただただ面白い小説なのに、これが発禁になったりしている。つまり、政治的なものを書くのは大事で、そういうものにはどんどん向かっていくべきなんだけれども、それを直接にやるとフィクションの強度は下がっていく。むしろ『細雪』的な方法の方が、国家権力が「これこそ大日本帝国の一番の敵だ」と目さざるを得ないような強さを獲得できると思うんです。取り締まる側にもものを見る目のある奴がいたということだと思うんですよ。
樋口 検閲官が当時一番鋭い読書家だったのかもしれないですね。ちなみにどういう理由で禁止されてたんですか?
畠山 直接的には「華美だから」とか「時局にあわへん」みたいなことだったと思います。ロマンチックな言い方だけども、物語の強度のようなものを嗅ぎ取ったからじゃないかなと思うんです。
樋口 そういう象徴的なものに対する取り締まりが強かった時代ですよね。『窓ぎわのトットちゃん』の映画で、お洒落な服で出かけたら憲兵に「戦時に華美な服装は不謹慎だ」と怒られて、「戦争に勝つことと服となんの関係があるの?」と反問するんだけど「黙れ!」と怒られて、戦争が大嫌いになる、みたいなエピソードがありました。合理的なアメリカとは違って、象徴で統一を図るという性格が強い。
畠山 ダイレクトなものよりもそっちを危険視するというのが面白いですね。『細雪』について「あれをみんなが読んでたらえらいことになる」ということが分かっていたわけですから。
樋口 『細雪』は冒頭がすごいですよね。二階と一階で会話するシーンで始まるんですけど、二階ではお見合いの準備でお化粧かなんかをしていて、一階ではピアノを練習している。そのピアノの音を聴きながらの会話が繰り広げられる立体感。
畠山 関西に移ってからの作品は全部面白いですね。『盲目物語』とか『少将滋幹の母』とか。そのあたりから、読みやすいだらだらっとした文体になっている気がします。あれが大事だと思う。
樋口 ちなみに僕は『春琴抄』の文体からめちゃくちゃ影響を受けてます。「春琴、ほんとうの名は鵙屋琴、」という冒頭のリズムから最高です。キングクリムゾンの「太陽と戦慄 パート2」みたいで。
畠山 あれめっちゃいいですよね。そういう「残っていく文体」ってなんだろうということを最近は考えています。「世界への悪罵の限りを尽くす……」みたいな紹介のされ方をしているトーマス・ベルンハルトを読んでいると、個々の悪口のレベルは大したことはなくて、何がすごいかというと、それをずっと言い続けるんですよ。僕はよく拷問とかパワハラに例えるんですが、単発の罵りだったら「そうじゃない」と否定できるけど、毎日365日言われ続けたら人の心は簡単に壊れる。そういう「量が質になる」ということが、さっきの谷崎の『細雪』やベルンハルトの文体にはできる。しかもめちゃくちゃ読みやすい。そういうものが残っていくと思うんです。
『改元』はかなり装飾的というか、込み入った文体で書いているんですが、今後はベルンハルトや谷崎的な、量を質にするような文体で書いていきたいなと思っています。
樋口 長篇は書かないんですか?
畠山 僕は小説を書くなら長篇を書いてなんぼと思っているので、挑戦したいですね。載せてもらえるところがあるかは分かりませんが書くだけは書きます。
樋口 作風的にも今日お伺いした欲望的にも、大きいハコの方がマッチすると思いました。
畠山 『改元』の二作を書いたときも、新聞の書評で「長篇が見たい」と書かれました。サイズが大きくなれば、文体的にもさっき言ったようなことができると思っています。
樋口 確かに。長篇の文体ってありますからね。
畠山 そうですね。もうちょっと平たい方向にいけるのではと考えています。
それでは、このあたりで。今日はありがとうございました。
樋口 ありがとうございました。
(完)
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◆登壇者プロフィール
畠山丑雄(はたけやま・うしお)
一九九二年生まれ。大阪府出身。京都大学文学部卒。二〇一五年『地の底の記憶』で第五十二回文藝賞を受賞。
樋口恭介(ひぐち・きょうすけ)
作家、編集者、コンサルタント。anon inc. CSFO、東京大学大学院客員准教授。『構造素子』で第5回ハヤカワSFコンテスト大賞を受賞。『未来は予測するものではなく創造するものである』で第4回八重洲本大賞を受賞。編著『異常論文』が2022年国内SF第1位。他に、anon press、anon records運営など。
2024年11月30日(土)於 正文館書店知立八ツ田店