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「あるんか」は「ない」ということ?

「そこに〇はあるんか」

というコマーシャルを時々思い出してしまう関西人の私は、

広告会社にしてやられているのかもしれません。

大地真央さんと、「それ」とのギャップが

インパクトあり過ぎですから。

やられちゃっているのは

私だけじゃないはずですよね。

同時に

「あるんか」の「か」の響きで

これまた、いつも私は

中学校時代のことを思い出してしまうのですよ。

「オール3」レベルだった私は

よく先生から、

「いしはら~! おまえはあほか!」

と、かわいがられた訳です。(笑)

「あほか」

の、

「か」の活用?について、

国語の先生から教えられたことまでも思い出している私なのです。

できれば、

「人生が恵まれること」を記憶したいなぁ、

と改めて思う訳です。

まぁ、思いだしついでですけど、

せっかく恩師から教えていただいたことなので、

人生が恵まれる「活用」にしたいなぁと思う私は、

閃いたことがありました。

それは、

「そこに『神』はあるんか」

です。

いいですねぇ、このコピー。

あくまでも、自分自身への問いかけですけど。

どんな場面で自問自答するかって?

それは

自分自身が「楽しくない」思いになるときです。

私流の解釈では、

『神』があるときは「楽しい」関りになっていますけど、

『神』が無いときは「それなり」の関りになっている、

という感じですね。

『神』は、

「ある」か「ない」か、

二つに一つで、

他は無い訳です。

でも、どう考えたって

『神』に依って生かされて生きているのですから

「ない」はあり得ないのですが、

現実は、「私も含めて」ですけど

「ない」時間が長い

かもしれませんよね。

「ある」のに「ない」のですから、

スイッチの切れたパソコンのようなもので、

力を発揮できないことになるのは

当たり前ということだと

私は思う訳です。

そうですねぇ…

他の言い方なら、

「あなたらしさ」という「輝き」が発揮できなくなる感じ。

『神』なんて「信じない」というあなた。

実は私も、

あなたの「信じない」という神を

全く信じていませんから、

ご安心ください。

では、

『神』を『調和』に置き換えるとどうでしょう。

あら?

その「感覚」が誰でも分かると

私は「信じます」よ。

「関りが『調和』になりますように誠を込めます」

という誠実な(誠の実行)生き方のときに、

『調和(神)』と一つになって、

生かされている「自分らしさ」を存分に発揮できることになり、

自他祝福になる芸術作品のような関り(生き方)が実現していくのは

自然かな、と。

そのスイッチは

謙虚な祈り心の行為である「祈ること」が良い感じですね。

でしょ?

『神』が「ある」生き方が

幸せな生き方であり、

幸せなんですよ。

改めて、

「そこに『神』はあるんか」

と、

自分自身に問い掛けてみることは

大切なことですよね。

お試しあれ。

人生は芸術である、楽しかるべきである。        

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