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日本の教育はダメだと渡米したママ友の絶望と、結果引き裂かれた子どもたちの背中と未来を見る

私は役者としても演出家としても脚本家としても大成しなかったけれど、演劇をやっていたことによって非常に多様性に富んだ人脈が出来たことは人生の中でも非常に尊いことだと思っています。「モテるから障がい者手帳は持った方がいい」とか「維新から出馬する」とかそういうお話が身の回りに溢れ、ああこれを内包していたのが俺たちの下北沢であり高円寺であり中野や新宿だったのだなと思い出がいっぱいです。

子どもの就学が近いということは卒園も近くなり、ママ友回りも準備に進路にあわただしくなる中、園を年末から休んでいたあるご家庭が渡米していた事実が発覚してもろもろ紛糾する事となりました。もちろん自由意志であり居住の自由を保障されている日本であれば行動単体にまったく瑕疵はありませんが、やはり大きなショックを受けたのは子どもたちでした。3年間竹馬の友だった彼女と急にあえなくなった悲しみは非常に大きく、どうしてこんな卒園前に、しかも相談もなく…という思いは我々親にも渦巻いています。悲しい。普通に。

自分のせいだとか言い始める先生やママ友をなだめ、励ますなかで、あるママ友に渡米ママから事の顛末が送られてきました。それは「子どもが支援級行きになることがわかり、入るはずだった学童もそれを理由に断られてしまい、日本の教育はクソなので渡米して9月入学に備える」ということでした。

日本の教育に足を踏み入れるときに発生すること

確かに、言われてみればですが、園で見かける彼女は急に暴れたり、寝そべったり、踊りはじめたりと自由気ままな風体ではありました。が、比較的ラフな運営をしてくれている我が園では正直あまり問題になっていなかったように思います。むしろ、彼女が後輩に対するときは柔和で親身な様子だった印象すらあり、それを聞いた我々も驚き半分理解半分といったところでした。

で、日本の公教育であっても、私立小であっても、まず規律を重んじ、和をもって尊しとなすことを叩きこむ傾向にあります。今回の彼女のケースはおそらくそれにひっかかかり、「支援級行き」を命じられたことに対するカウンター行動なのだと感じられました。一人の親として非常に理解が出来るし、特に米国ではお金さえあれば基本的に私立でどんどん進学はできるそうなので、その余力のあるご家庭だったのは存じているので、彼女たちの生活に幸あらんことと思います。寂しい。

教育の向かう先

日本の教育がクソかどうかはともかく、ここで、以前何かで読んだある教育者の投稿を思い出しました。それは、「子どもの発達段階を考えれば支援級に行くことが適切な場合に、普通級に通わせたがるのは親のエゴで、我がままだ」とか、「支援級に行った子どもに聞いたら、8割は支援級に行って良かったと言うデータがあるのだから、その支援級を嫌がるのはけしからん」という内容でした。もしかして、彼女もこういう言い方をされたから渡米に至ったのではないか…?

子を持つ親として、我が子にこう言った物言いをされることは確かにつらいというか、腹が煮えくり返るような気持ちになるのは当然と言えます。ではそれは何故だろうと考えた時、「じゃあ我が子が支援級に行った後はどういった人生を歩むんですか?」というところが全く描けなくなってしまうからだと思うんですよ。逆を言えば、支援級に行くことでこんなメリットがあるのだとか、こうした人生計画を描く事が出来るようになるのだ、という進路指導の一つの強力な選択肢として支援級が存在するのであれば、「確かにそれはよい選択だ」となるはずなのです。例えば、工業科に行ったら卒業後はこう、商業科にいったら資格はこう、支援級に行ったら就職先はこう、といったくらいにフラットにメリットを比べられる選択肢として。

そうではなく、単純に「お前の子どもは支援級な、ハイ手帳」みたいな話なわけじゃないですか。これは進路相談ではなく管理であり、ともすれば地獄のバスガイドでしかなく、少なくとも「では今後どうなる」の説明はある程度必要なわけです。それを「まあその方がお宅のお子さんも幸せそうだしいいでしょ」というのは、一人の親として言語道断と言えますし、じゃあ卒業後にどう幸せになれるのか具体的に教えてくれよという幸福追求権としての当たり前の話ですらあります。

手帳持ち友人と飲んだ話と、人生の進路の話

なお、手帳持ちの皆様の生活に関しては、前述の通り知り合いに何人かおり、まあみなさん少なくとも結婚はできてないわけですよ。でも普通にLINEしてくるし、インスタもやってるし、何ならYouTubeでLive配信とかやってスパチャ稼いだりとかもしてるわけです。3、40代の知り合いが多いので本人たちもまあ人生もう終わりだろうねwとか言いつつも、なんやかんや彼女は途切れておらず、健康で文化的な最低限度の生活は送れているのだなあと思いながらまた先日も新宿まで飲みに誘われるわけです。彼らは一様に「手帳あれば美術館タダだし彼女もタダになるからめっちゃおすすめだよ」とか手帳の取得をお勧めする鉄板ギャグを持っているのが面白いんですが、「先週またODして3日昏睡状態なったわw」みたいなのをトー横の前ででかい声で話すと警官が寄って来るので止めてくれませんかね。お前はトー横キッズじゃなくて足立区民だろと声を大にしてツッコミを入れ、お前は錠剤200個飲む前に唐揚げ食べ残すのやめてくれよと茶化して西口でバイバイするのです。また会おう。

で、さっきの教員の言い方からは、そういった彼らを包摂してくれている優しさやビジョン、社会の一員として認めるというのは感じません。彼らに軽度の知的障害があるとか、ADHDやASDだとかそういう詳しい個別の症状は存じませんし、今回渡米なさったところの子どもさんも医師の診断がついているものとは思われますが、じゃあそれをどう包摂し先を提示できるか、ロールモデルを示すような「進路」としての手帳ルートを教育側がちゃんと確保してあげるべきだよなあと思います。彼らがどう生きるかなわけじゃないですか。

子どもに幸せになってもらいたいだけなのよ

翻って、例えば中学受験の成功云々というのも、親が望む・臨まざる進路とするならば、実は手帳を持つこと・持たないことと同じ意味を持ち始めます。親の立場からすると、「なんかいい未来・いい環境に行ってほしい」から中受をさせるわけであって、結局欲しいのは単純な未来予想図なわけですよ。中受はそれを叶えてくれそうな魔法の靴であり、ゆくゆくは手帳もそれに類するようなキラキラアイテムになれば、押し付ける教員も泣き叫ぶママもいなくなるのになあと思います。

他方、SAPIX通いの生徒が入学した大学偏差値の中央値は55であるというのは有名な話で、我が母校法政大学にも多くの中学受験組がエスカレーターで上がってきましたが、多摩キャンパスともなればもちろん偏差値は無事55近辺ということになり、毎晩めじろ台で雑に飲み散らし、無事に留年したり就職に普通に失敗したので、結局自宅警備員やYouTuberやブラック企業勤めやしがない役者を続ける34歳未婚男性たちがワラワラ出来上がっている令和6年なわけですよ。こうなると、手帳持ちの人生も中受してエスカレーターで大学まで出た人生に差があるとは思えず、各々が幸せに生きてればそれでよしであり、中学受験をして未来が良くなるなんて御三家か早慶行ってからの話ではという話は皆様覚えておいた方が良いでしょう。みんな元気にやってますけどね。

今回渡米してしまったママが欲しかったのは、子どもについた医師の診断の後の教育行政側からのビジョンの提示であったろう事は容易に推察されます。それが無かったのでクソだと吐き捨てるのもまた親の道理であるとはいえるものの、ここでむつかしいのは、教育行政側はそのビジョンを持ちにくい体制を抱えていることにあります。

行政が抱える摩擦

結局構造的な問題ですが、まず義務教育の範囲では、市や区が小中学校を持っているため、保育園と連動・連携した取り組みをかけやすくなっています。一方で、高校に進学すると、いわゆる特別支援学校は(一部区立はあれど)大半が都立となり、行政区分を超えてしまうため連携がとりにくくなるというのは特筆すべき点でしょう。昨今では行政の頑張りにより保育園・小学校の連携は非常に広範囲の連携した支援が受けられるようになりました。それは喜ばしい反面、学童・中学校といったところまでまだ手が回らず、その後の偏差値シャッフルが発生し、行政区分も文化も異なり始める高等教育からについては十把一絡げに支援していくことは不可能に近く、実際のところ、卒業後の進路なんて正直誰も明確なビジョンを答えられないだろうという事さえ言えるのです。結婚できるのか?一人暮らしが出来るのか?自立できるのか?どんな仕事ができるのか?…こうした取り組みが始まって四半世紀は経ちますが、そういった発達の支援行政というのはまだまだ道半ばだという事実も突き付けられることとなります。

で、特に発達系の福祉分野と学問系の教育分野ではそも監督官庁が異なり、ある種混ぜるな危険ということもあり、その縦割りの摩擦を解消するため爆誕したのがこ家庁であります。保育、義務教育から高等教育、さらに就労支援や就労先の斡旋・雇用保険あたりまでストレートで持っていくには縦割りではむつかしい面もあり、こ家庁を通じて子どもの未来を紡ぐためのうまい立法ができないだろうかと逡巡するところです。

ともすれば、「帰る家だけでも作ってあげたい」という居場所として機能しているだけの支援級や支援学校も多く、それ以上でもそれ以下でもないというプリミティブな存在意義も必要ながら、一人の人間にこれからはその小さな幸せに収斂していきなさいと断じる事は本当に幸せの第一歩と言えるのだろうかというのは非常にセンシティブな問題と言えるため、事実の適示が必要なシーンであっても、慎重な観察と発言が求められるところです。


画像はWindows Copilotが考える「無い袖は振れないけど、袖振り合うも他生の縁で回っているのが世の中」です。

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