【教育】国語を哲学する
はじめに
数ある記事の中から私の記事を選んでいただきありがとうございます。軽く私について自己紹介させてください。
(春から)大学4年生
某大手進学塾の国語科教師(4年目)
僭越ながら私は国語科のプロ講師として日々講義をしています。しかし、3年も国語を教えているにも関わらず、恥ずかしながら私は「国語」がいったい何なのか全くわかっていません。そこで今回は国語科教師が国語を哲学すると題しまして、「国語とは何か」探索してみようと思います。
1.国語=母語?
国語とは英訳すると"National Language"であり、一般的に我々日本人にとって"National Language"、つまり母国語は日本語である。では日本語は母語でもあるので、国語は母語(教育)だろうか?
しかし私がここで慎重にならねばいけないと思うのは、
"National Language"≠"Mother Tongue"であって母語≠母国語であることだ。
私たちはこのことをいとも容易く混同してしまう。
誰の著書だったか失念したが(内田樹あたりだろう)、ピジンとクレオールについて深く言及した文章を読んだことがある。ピジンとは2ヶ国語が混ざり合ってできた共通語のことで、それが根付いて次世代で話されるようになった言葉をクレオールと呼ぶ。クレオールはその発祥に多くの場合植民地が絡んでくるので、やや差別的なニュアンスを含むようだが、本稿にはそういう意図は一切ないので先に断っておきたい。
例えば、ある少年を思い浮かべてほしい。彼はフランス領のとある非フランス言語圏で生を受けた。当然そこはフランス領なので統治者であるフランス人はフランス語を話す。しかし現地人はフランス語を知らないので、フランス語を独学し意思疎通を行えるレベルまで到達した。その傍らで彼らはついぞ母国語を手放すことはなく、2つの言葉を融合させたハイブリッド言語=ピジンを生み出した。いつしかその街は貿易で栄え、多くのフランス人が訪れるようになった。そうするとこの街はますますエセフランス語が支配的になる。彼はエセフランス語、つまりピジンを話す商人の息子である。当然彼はエセフランス語を自身の第一言語として流暢に話すようになった。彼は自分が話している歪な言語を歪だと認識することすらない。なぜなら彼にとってエセフランス語は母語であるからだ。
私たちは、単一民族国家日本に生まれ育ってきたので、ピジンもクレオールも知らない。いいや、これは真っ赤な嘘である。なぜなら日本は厳密には単一民族国家ではないし、最低でも2つ以上の言語が話されていたからだ。もっとミクロな視点でいえば訛りの存在も無視できない。私たちの母語も少年と同様に、決して画一的なものではないのである。
そもそも「日本語教育」のはじまりをご存知だろうか。明治30年ごろ、日本では日本語の将来について熱い議論が交わされていた。例えば漢字をなくしてしまおう(減らしてしまおう)という漢字廃止論だとか、もっと極端な例で言えば公用語を英語にしてしまえというものもあったとか。そこで上田万年という人が「日本には標準語が必要だ」と言った。近代日本語の幕開けである。標準語は東京弁を中心に編集された言葉で、国定教科書の導入によって全国で日本語の統一を図った。沖縄やアイヌの方言札に代表されるように、母語が東京弁と大きく異なった者たちは、ドラスティックな変化を強制されただろう。矯正と言った方が近いだろうか。そしてそれがするりするりと本日の国語科まで伸びてきているのである。
その意味で、国語は母語を排除する方向に働きかけるので、国語=母語なわけがないのだ。むしろ源流を辿れば、多様化した母語を駆逐するべく作られ、画一された母国語(標準語)=国語であるのだ。
The language that the government enforces on its citizens is called "National Language".
私はこの文脈でNL(長いのでそろそろ略す)を了解したい。
2.増える外国人
前章では国語が母語教育ではないことを確認した。そのため日本においてNL教育の存在がピジンを排除することに役立っているだろう。しかし、各家庭のレベルで言語を観察したとき、完全にピジンを消し去ることができているかどうかは疑問である(ピジンを消すことの是非は一旦置いておく)
例えば私が講師をしている地域は異様に中華系の人が多い。本邦の苛烈な受験戦争が対岸にも波及しているのか、日本人と比較して中華系の人々は極めて教育意識が高く、早期教育を好む傾向にある。その結果、生徒のデモグラに占める中華系の割合が高くなる。(一応断っておくが、私は中華系の人々に仕事を支えていただいてるので感謝しかない)
ある時私は衝撃的な場面を目撃した。中華系の生徒と迎えにきた母親が校舎玄関付近で会話をしていたのだが、母親の日本語は文法だとか単語だとかがめちゃくちゃで、正直まともな声掛けになっていなかったのだ。しかし子どもはそれをさも当たり前のように聞き取り、嬉々として中国語まじりの日本語で応答している。私は21世紀の日本でピジンを目撃したのだ。 子どもの言葉はクレオールになるだろうか。とにかく、私の目の前にはピュアな日本語=NLと大きく離れた謎言語が飛び交っていた。
後日私はその生徒の担当になった。そして彼のこれまでの模試の成績を覗くとびっくり、国語の偏差値が常に30台前半なのだ。いやしかし仕方ないかなと、一人で勝手に納得した。いくら彼が国語を学んだとしても、ピジンが支配的な環境で育ったらば厳しいよね😢子どもが使っている言葉を親が真似するケースは少数だろうし、正直ご家庭まで乗り込んで言葉を修正することなんか不可能だから、私は私はなすすべなしだと思ってしまった。(教育力不足と罵ってください)
NLを学び育ってきた親の子世代(現代世代)はある意味NL=母語である、真のネイティブ世代なので国語=母語もほとんどの場合成立する。しかし国語教育を日本で受けていない親世代による家庭の子供は、この真のネイティブ達と真っ向から対峙しなくてはならない。だから厳しいのだ。
しかし近年日本に住む外国人は顕著に増えている。私は今後さらなる国語ができる子・できない子の格差が二極化すると予測している。
3.国語における環境の重要性に関する一考
国語は母語ではない。しかし明治政府の努力の結果、近年ではほとんど母語に近似したと言ってもいいだろう。よって、国語科における学力と環境の相関は強まっているのではないかと予想することができる。
極端な例えだが、世界地図がトイレに貼ってある家庭とそうでない家庭では、子供が知っている国の数に有意差が出るのと同じで、国語に溢れた環境で生活した子供も自然と国語ができるようになるのではないかと思われる。
例えば国語が得意な生徒に「小説とか読む?」と聞くと、3割~半数の生徒が「読む」と答え、そうでない生徒でも「映画好き」「漫画好き」「メディア好き」など、コンテンツと広い接点を持つ子どもの方が国語の成績が高いケースが多い。これはコンテンツと国語が接近しているからであろう(コンテンツもNLを基盤にできているものなので)。こういう日常における国語との邂逅は、物理や数学のような理論的な分野において多くは存在しない出来事だ。だからこそ国語は家庭での向き合い方によって大きな差が発生する。ヨーイドンで生まれた時から国語に溢れた環境に育つかどうかで、後々取り返しのつかない大きな差が生まれてしまうのだ。
4.国語力とは?
「国語ができる」と簡単に書いたはいいものの、そもそも国語ができるとは一体なんだろうか。私は塾で国語を教える時に国語力を2つに分析している。
国語力 = 知識量 ✖︎ 経験
(a)知識量
いわずもがな、国語にとって最重要項目は知識量である。仮に素晴らしい教材に恵まれたとして、そのオアシスにある潤沢な水を自分の畑(脳)に効率的に汲み取れるかどうかはパイプの太さや強度に依存する。それはまさに知識量のことで、大きければ大きいほど太く、深ければ深いほど丈夫なパイプになって、対象から吸収できる量そのものが大きく左右されるだろう。知識というのはもちろん文法や漢字もそうだし、自然科学や人文社会学のような背景知識もまさに「知識」である。まず知識を肥え太らせねば、国語力は伸びてこないだろう。
また、多くの著者が「国語の専門家」ではないことにも注目したい。専業小説家だって別にNLを極めようとしているわけではなくて、言語はあくまで内なるテクスチャの発散方法でしかないのだから「表現者」が先だろう。国語専門が先に来るのは、国語の研究者か塾・学校の先生くらいしかいない。しかし世の中には国語の専門家以外の書物が溢れている。必要なのは知識と意志であってNLじゃないから当然である。つまり知識量がまず先行する。肝に銘じてほしい。
(b)経験
読むことも聞くことも話すことも、国語力にとっては重要な能力だ。しかしこれを鍛えるのは一筋縄ではない。わたしたちはふしぎなアメをなめて簡単にレベルアップをすることはできないのだ。国語力は時熟を前提とする力であり、経験が必須なのだ。多読にコミュニケーションが土台必要なのだ。
5.本当に"国語"が学びたいなら塾に行くな
今までを軽くまとめると、国語はその発祥が「母語を排除すること」にあって、十分排除された現代日本においては国語=母語教育と言って差し支えない状況であることを考察した。またその意味で親世代がNL教育を受けていない外国人の増加や、環境の重要性という背景に伴って今後ますます「国語の格差」が広がると推測した。
また国語力についても整理した。書いていてはっきりしたが、本当に国語をできるようにしたいなら塾になんて来るなと思う。残念ながら、ほとんどの塾で国語の授業中に理科や社会を教えてくれる先生はいない。棲み分けされているから国語科が触れる必要がないと、我々講師は無意識に線引きをしているのだ。しかしそれではダメだ。国語力は知識量を前提とするが、その知識量の中身が「大根の水増し!(大鏡/今鏡/水鏡/増鏡)」みたいな本質から大きくそれたものばかりでは何の意味もないからだ。国語を教えるっていうのは、今の時代ある意味では完全に親の領分だし、それは別に机について漢字を教えろとかそういうことではなくて、ただコンテンツに触れるきっかけ作りと供給に気を配れるかどうかだと思うのだ。「うちの子できないんです〜」と言われても子どもは保護者リテラシーの写し鏡でしかない。正直受験まであと1年の子どもを寄越されても、たかが100~200時間の間でそれまでの人生分の知識量と経験量をインプットできるとは到底思えない。
国語ができるようになりたいそこの君、それが本気なら国語の授業なんか取らずに週に2冊古本を買って読み、映画を3本レンタルして鑑賞し、友達と談笑でもしたらどうだね。何、受験で使えるテクニックが知りたいって?そんなもの市販でもまともな本が何冊も売っているよ。国語はねぇ、生きてればできるようになるよ。密度を濃くしなさい、密度を。
私の弟は塾にも通わず大学受験をした。彼は入試直前まで英語と日本史しか勉強しておらず「国語はどうしたの?」と聞いたところ「どうせみんなできないし、俺はみんなくらいはできる」と言っていた。結果、私の弟は慶應義塾に合格し、この春から進学する。私は早大生なので兄弟で早慶戦ができるらしい。
話がそれたが、国語を学びたいのに塾に行く。そんな動機は全く的外れだと、国語科4年目の講師は思わざるを得ないのだ。
おわりに
ここまで読んでいただいきありがとうございました。私は人に講釈垂れるほど国語に秀でていませんが、これを読んでくださった方々が「国語」を考える機会になったら幸いです。