俵万智で視界を洗う
2人目を産んでから特に、使い物にならない頭に嫌気がさしている。
ぼんやりと靄がかかったように鈍く、この文章も7割、いや5.5割くらいしか、本当に言いたいことが言えていないような、
その言いたいことすらどこかにいってしまっていて、それにも気づいていないような不安感がある。
ごちゃごちゃ疲れ果てた週末をすぎ、何をしたらいいのかわからない月曜、書店にきた。
ゆっくりと座れるスタバがある書店で、まずはぐびぐびコーヒーを飲み、目についた俵万智の短歌集を手に取り、気がついたら泣いていた。
途中まで「わかるわかる」と、あるある本の感覚で読んでいたはずがみるみるうちに取り込まれる。
赤ちゃんと過ごす静まり返った一日を思い、
子に導かれ異化された日常を、共に冒険したことを思った。
母を呼ぶだけで嬉しいのだとわかる愛らしい声が聞こえたかと思えば、
それが日常になったころ、子どもはあっさりと巣立っていく。
3歳の息子とのお喋りすべてが楽しくて忘れたくないことも、
0歳の娘の、目が合うだけであまりにも嬉しそうに笑う様子も。
毎日があまりにかけがえのない日々だと重々承知しているつもりだけれど、
その輝きを改めて掬いあげ、じっくりと見せて、美しさを教えてくれるような本だった。
ぼんやりとした頭で毎日を生きていて、膨大な毎瞬、何かを見落としている不安に駆られていた私には命綱のようでさえあり、俵万智が出産していて本当に良かったと思った。
前書きにも、子育ては「なまもの」、すぐに読まないと悪くなっていくというようなことが書かれていて、そこにもすごく共感した。
私も将来の自分のためにもっと書いておかねばと思う。
一緒に、昨年秋に発売されたばかりの「アボカドの種」も読んだ。
作者はもう還暦。先の句集の後に読むと、人生が一層に奥に進んだのがわかる。
年老いる両親、育った息子、自分の病気、還暦の恋。
一句一句がのびやかで、難しい言葉を使っている訳でもないのに、心に根差しているから刺さってくる。
大事なものが増えれば増えるほど、生きるとか死ぬとか失うとか、色んなことに敏感に怖がりになっている最近だけど、やわらかな感性のまま、60代を生きる先輩がいることの心強さをしみじみと感じた。
最後に、いろんな歌人がいるけれど、俵万智の歌集を読むと、自分もついつい詠みたくなる。
なんだか不遜だなと思いつつ、それも歌人の懐の深さのせいだと思いたい。