【完結小説】「好きが言えない 2」後編
前編のお話:
幼なじみから恋人同士になった祐輔と詩乃。しかし祐輔は、想いが膨らみすぎて野球にも勉強にも身が入らない状態に。見かねた詩乃は祐輔に別れを持ちかけ、なんとか野球に集中してもらうべく画策する。
一方、チームメイトの野上は祐輔の成績が芳しくないのを見て自分がピッチャーになると宣言。また、詩乃にも告白めいた発言をし、祐輔を揺さぶる。追い詰められた祐輔は信用を取り戻すため、ピッチング練習に打ち込む。
部長の計らいで全員がポジションの適性テストを受けることになる。
結果、祐輔、野上の二人はピッチャーを務めることとなる。どちらがレギュラーになるかは、チーム内対決で決めることになった。
チーム内対決は両者の好投で長引くかと思われたが、後輩からホームランを打たれたのを機に野上の投球は乱れてしまう。野上は実力差を思い知り、自らマウンドを降りる。
なんとか面目を保った祐輔の胸に詩乃が飛び込む。
どんなに成績が振るわなくても関係ない。私はどんな祐輔も好きなのだと胸の内を明かす。祐輔は詩乃を悲しませまいと、ますますいいピッチングをしようと誓う。
そこへ永江部長が現れる。二人は別れるべきだと提言したのは部長だったのだ。
甲子園を目指すためにも、恋愛脳で野球をされては困ると言い放つ。
冷徹な部長に不信感と嫌悪感を抱く祐輔。バッテリーを組まなければならないと思うと気分が落ち込むのであった。
1
七月上旬から夏の大会が始まる。
永江が新しいレギュラーを発表してからと言うもの、部内にはますます緊張感が走るようになった。誰も、何も言い返せない雰囲気が漂い、みな、肩に力が入っていた。
あいつの、甲子園への情熱は我が部では異常に映る。なぜあんなにも鼻息が荒いのか、理由を知るものは俺しかいない。もしこの空気を変えることが出来る人間がいるとしたら俺だけだろう。でも、その俺でさえ口出しすることは許されない感じだ。
普段は不在だが、大会中だけは好成績を残すため、外部から監督を呼ぶ。これまでの大会では、監督とは名ばかりの野球部OBに依頼し、なんとか体裁を保っていた。春の大会ではなんとかいいところまで進出したが、監督のお陰とは言いがたい。永江のように「甲子園」のことしか頭にないような人間を本気でそこへ連れて行こうとするなら、まともな実績を残している監督が必要になるだろう。
きょうはその、監督と初対面する日だ。どんな「若い監督」がやってくるだろう。先日のポジション決めで審判をしてくれたOBの先輩かもしれないな、などと想像する。
「みんな、集まってくれ」
部活が始まり、部室に顧問がやってくる。みなが一斉にそちらを向く。
一瞬にして空気が変わる。顧問とともに現れた初老の男性に俺ははっとし、頭を下げた。永江も同じようにした。
顧問がいう。
「今日から監督として就任してもらうことになった、星野さんだ。永江の希望を聞き入れて引き受けてくださるそうだ。中学生の野球チームを優勝に導いた実績もあると聞いている。甲子園出場も夢ではないぞ。みんなにはますます練習に励んでもらいたい」
そうか。これは永江が演出したことだったか、と納得する。
星野監督は、俺と永江が中学の時所属していた野球チームの監督をしていた人だ。地区大会で優勝したこともある。とても信頼していたが、持病の治療を理由に監督業を引退していた。
「このたび、K高の野球部監督を任された星野だ。春の大会の成績は聞き及んでいる。夏の大会はすぐ目の前だが、鍛え方次第ではさらに上を目指すことも十分可能だ。わしは厳しい指導はしない。その代わり、どんな攻撃をすればいいか、どんな守りをすればいいかという指示はする。ほかの監督とは違うだろうが、まぁ、こういうやり方でもよければよろしく」
懐かしい口調の挨拶。以前と変わらず元気そうにみえる。俺は監督に声をかけるため歩み寄った。
「監督、お久しぶりです。水沢です。覚えていますか?」
「水沢庸平(ようへい)か。もちろん覚えているさ。どうだ、永江のお守(も)りはちゃんと出来てるか?」
「いやぁ、むずかしいっすね……。監督が来てくれて、助かります」
「水沢でも手こずっているなら仕方がない。やはりわしが矯正してやらんとダメみたいだな」
「そうですね。あの、お体の具合は大丈夫なんですか?」
「うむ。順調に回復しているよ。ただ、延長戦にもつれ込んだら体力が保たんだろうから、できるだけ早く試合が決着するようにしてくれよ」
「じゃあ、永江には打たせないようなリードをしてもらわないといけませんね」
俺がそう言うと背後から咳払いが聞こえた。振り向くと永江が立っていた。
「昔話に花を咲かせるのは結構ですが、人の悪口を言うのは感心しませんね」
「悪口なものか。わしらはお前の心配をしているだけだよ」
「心配される理由がありません」
「そういう態度を心配しているんだよ。さあ、時間も限られているし、すぐに練習を始めてくれ。君たちの野球をまずは観察しないと」
監督はそう指示を出した。
*
「永江ー。帰るぞー」
「ああ」
練習を終え、俺らは帰宅の途につく。
川越駅から下り電車に乗り込んでも、会話はほとんどない。永江の頭の中はきっと、夏の大会のことでいっぱいなんだろう。
中三のある時から、永江孝太郎って人間はがらりと変わった。
変わる以前のあいつは気性も穏やかで付き合いやすかった。が、その後のあいつは、ひとたび怒りの感情が噴出すると手をつけられなくなる。まさか、あの優等生の永江が、あんなふうにキレちゃうなんて誰も思ってなかったもんな。あのとき止めてなかったらどうなっていたのか。時々想像しては恐ろしくなるんだ。
2
人前であれほどの怒りの感情を顕わにしたのはあのときだけだ。
自分でも、まるで自分ではない何者かに心も体も支配されてしまったかのように感じた。我ながら恐ろしい体験をしたと思っている。
きっかけは分かっている。野球を熱心に教えてくれた父が病死したせいだ。三年前の春、僕は心の支えをなくしてしまった。
僕に出来るのは野球を続けること。それだけが僕の不安定な心を落ち着かせる唯一のことだった。
なのに。
母がそれを否定した。
それだけじゃない。
僕の努力してきたことすべてを踏みにじる発言をした。
しかも、担任との三者面談で。
許せなかった。
暴力、なんて次元じゃなかった、と思う。
気づけば母の顔は真っ赤になっていた。高揚していたのではない。鮮血で、だ。
覚えているのはその場面だけで前後のことは周りに聞いた話だが、今思い返してみても、悪いことをしたとは思っていない。ただあの場で、次の面談者だった水沢が止めてくれなかったら、僕は今ごろ犯罪者になっていたに違いない。
今でも水沢は僕に親切にしてくれる。でもそれはきっと、あんなふうにならないために監視しているんだと思う。
それでもいい。そっちの方が何倍も気が楽だ。
今日も水沢の家でやっかいになる。まるで合宿しているようなものだ。
中学の頃から、水沢家で食事をしたり泊まったりしたことはあった。冷めた料理を一人で食べているという話を伝え聞いた水沢の母親が僕を不憫に思い、一緒に食べようと誘ってくれたのがきっかけだった。当時、父の看病で母は留守がちで、一人っ子の僕はそういう生活を余儀なくされていたから、「家族」で食事をする時間は特別だった。
水沢の家族と過ごすのは、僕にとっても心地がいい。
父がいて母がいてきょうだいがいて。喧嘩もするが、そこにはちゃんと「愛」がある。僕は彼らを見るといつもそう感じるし、もし父が生きていたら僕も家族の愛を感じられたのだろうかと、少しばかりうらやましく思うこともある。
「なぁ、孝太郎。いつから監督と交渉してたの? 俺に内緒でさぁ」
食事が済んでリラックスしたのか、水沢はそう言った。家にいるときの水沢は僕のことを「孝太郎」と呼ぶ。本当は親を思い出すからあまり好きではないが、家にいるときだけという条件付きで許している。
「ひと月程前から。君を驚かせようと思って黙ってたんだ」
実を言うと、僕自身オファーを受けてくれるとは思っていなかったので、あの場に顧問とともに現れたときは正直、驚いた。そのくらい、音沙汰がなかったのだ。水沢に伝えられなかった理由もそこにある。
「孝太郎がサプライズプレゼントをくれるとは意外だね」
「君だって、星野監督ならやりやすいだろう?」
「まぁ、そうだけど。ずいぶんと無茶なお願いをしたもんだ。持病のある老人に、もう一度指揮を執ってくれ、だなんて」
「どうしても……」
「……甲子園、か?」
「ああ。父と夢見た場所だ。行きたいんだ、どうしても」
行けばそこに父がいる気がして。だから、勝って、勝ち進んで、甲子園に行きたいのだ。
ただ、父の亡霊に会えたとしても、そこでどうしたいのかまでは分からない。けれど今の僕は、そうすることでしか生きる意味を見いだせないでいる。
「孝太郎一人が頑張っても、行ける場所じゃないんだぜ? それは分かってるよな?」
息巻く僕を、水沢は冷静に諭した。僕はうなずく。
「だからこそ、実績を残している監督が必要なんじゃないか。星野監督は信頼できる」
「まぁ……そうだな……」
水沢の曖昧な返答に不安になった。
「……僕は変なことを言っているだろうか」
時々、自分が分からなくなる。自分では当たり前のことを言ったりしたりしているだけなのに、周りの目が僕を「変わり者」のように見ている気がしてならない。
水沢は言いにくそうに頭を上下に動かしたあと、意を決したように言う。
「お前さ、その先のこと、考えてる? 夏の大会が終わったあとのこと。今のお前見てるとさ、お前の人生って夏の大会で終わるみたいに感じるんだよ。だから、ちょっと怖いんだよ」
「……怖いって、何が?」
「……ほんとに分かってないんだなぁ。……死ぬんじゃねぇぞ? お父さんは死んじゃったかも知れないけど、孝太郎の人生はまだまだ続くんだから」
彼の言うことは至極もっともである。あとひと月ほどで僕の高校野球人生は幕を閉じる。勝っても負けても、だ。甲子園という目標がなくなったら、僕はその先どうすればいいのだろう。
「これから、考えるよ」
僕は彼を心配させたくなくてそう答えた。彼は疑っているようだったが、今はそれ以上追及してこなかった。
*
星野監督の指導の下、僕たちは「考える野球」をする日々を送っている。一死一塁の時はどう投げさせるか? 先制を許した次の回の攻撃はどうするか? など。
一球ごとに頭と体を使うから、終わる頃には誰もがヘトヘトになっていた。
それでも僕は満足できなかった。この程度で根を上げていては、優勝決定戦まで保ちやしない。もっと体力をつけ、技術力を向上させなければ一勝さえ遠い。部活動が終わって帰宅したあとでも、素振りやランニング、今日指導を受けた内容の復習をしなければ落ち着かない。
いつもはそんな僕に水沢も付き合ってくれる。が、今日だけは違った。
「永江、きょうは先にうち、帰っててくれる? ちょっと……用事があるんだわぁ」
部活中から何だかそわそわしていると思っていた。今だって、早くこの場から離れたいという空気が伝わってくる。
「用事、か」
「そう。用事。じゃ、そういうことで」
水沢はそう言うなりスマホを取り出し、誰かに連絡をし始めた。
彼の隠し事は実にわかりやすい。いや、男なんてみな同じように嘘をつく。
薄々気づいてはいたが、たぶん水沢には彼女がいる。きょうはその「用事」があるんだろう。
彼なりに気を遣ってはいるようだが、僕としてはやり不満がある。気の知れた仲とはいえ、こんなときに「女」とは。
ため息をつき一人、川越駅に向かう。帰宅ラッシュ時の駅は混み合っている。いや、どうやらそれだけではない。電車が止まっていて駅に人があふれているようだった。駅員がしきりに客の対応をしていたり、アナウンスをしたりしている。
急いでいるわけではないが、面倒なことになった。僕はどうしたらいいか分からず、改札の前でしばらくのあいだ呆然としていた。
すると、
「あっ、部長。どうしたんですか?」
背後から明るい女の声が聞こえた。春山クンだった。
「やぁ。電車が止まっているらしくてね。帰るに帰れないんだ。それはそうと、君は電車通学ではなかったはず。なぜ駅に?」
「家族に買い物を頼まれたので。うち、川越駅からすぐのマンションなんです」
「なるほど」
彼女は自宅マンションがあるらしい方角を指さした。と、そのとき、どこからかギターの音と歌声が聞こえてきた。ちょうど、彼女が指さした方からだ。
「あっ、きょうは来てるんだ!」
彼女は突然はしゃぎ始めた。
「来てるって、誰が?」
「ストリートミュージシャンの『サザンクロス』ってグループです。このあたりで活動してる三人組なんですけど、私、結構気に入ってて時々お金入れてあげるんです。ほんのちょっとですけど」
素人のバンドにお金を投じる感覚が全く理解できなかったが、彼女は「部長も聞いてみたら分かりますよ。行きましょうよ」と腕を引っぱった。電車が止まっている状況では、断る理由が見当たらなかった。
三人組のうち、ボーカルは女性、残りが男性でギターを弾いている。
春山クンはなんだか嬉しそうに彼らの曲に耳を傾けている。思えば、はやりの曲どころか野球以外のことは何一つ関心を持てないでいる。改めて自分は、馬鹿がつくほど野球一筋なのだと認識する。
「もしかして、コウちゃん……?」
歌が終わると、ボーカルの女性が僕の名を呼んだ。そんなふうに呼ぶ人は少ない。僕は化粧をした女性の顔をしばらく見たあとでようやく思い出した。
「麗華(れいか)さん……? こんなところで何やってるんですか」
水沢の、四つ上の姉だった。僕が中学生の時にはまだ家にいて顔を合わせることもあったが、彼女が大学進学を理由に家を出てからは会うこともなくなっていた。
お互い、すっかり容貌は変わっている。それでも向こうは僕だと気づき、僕も麗華さんだと分かった。不思議だった。
「あれ? 部長の知り合いですか?」
春山クンは僕と彼女の顔を交互に見た。
「水沢のお姉さんだ。僕と彼は中学の頃からの付き合いでね……。麗華さんにも何度か会ったことがあるんだ」
「そうなんですか?!」
春山クンは妙に興奮していた。その隣で、僕と麗華さんはどう振る舞えばいいか分からず、互いに見合ったままだった。
彼女は僕のことをじっと観察していた。が、そのうちにぽつりと言う。
「コウちゃんの顔を見ていたら、この歌が歌いたくなったわ。きっと気に入ると思う」
次はこれで行きましょう、麗華さんはメンバーにそう声をかけ、楽譜を広げ始めた。
僕の顔を見て選曲? 一体何を歌おうというのだろう?
麗華さんは深呼吸を一つすると、ゆっくり歌い始めた。
果てしない夢 いつか叶えたいと
語り合った 幼い頃
見るものすべてが 美しかった
夕日のオレンジ 空の青
木々の緑 桜色
心揺れた景色は いまも 色鮮やかに
強く生きていくと 誓ったあの日
僕は僕を超えたんだ
まっすぐな どこまでも続く道をゆく
立ち止まっちゃいけないと
いつでも全力なんだ マイウェイ
♯
ひとりでは夢 叶えられないと
落ち込んだ 春の夜
見るものすべてが にじんで見えた
雨空の下 傘も差さずに
冷たい雨に 打たれてた
傘を差してくれたのは ともに歩んだ仲間
ひとりで生きていくと 誓ったあの日
僕は僕を超えれなかった
まっすぐな想いだけじゃ ダメなんだって
仲間がいるから強くなれる
もっと全力なんだ ずっと
♯
ひとりじゃ届かない歌声も 届く みんなとなら
まっすぐな どこまでも続く道をゆく
立ち止まってもいいんだと
教えてくれた ありがとう 友よ
歩いて行ける 僕はもう ひとりじゃないから
目の前で誰かの歌を聴いたのは初めてだった。そして、不覚にも聴き入っていた。
なぜか、胸が痛んだ。こんな感覚は味わったことがない。これが歌の力というやつなのか。にわかには信じたくなかった。
麗華さんは歌い終わると微笑んだ。
「最後まで聴いてくれてありがとう。私たちの想い、届いたかな?」
どう答えていいか分からなかった。春山クンを見る。察しのいい彼女が僕の代わりに口を開く。
「とっても良かったです! 麗華さんの歌声も素敵でした!」
「ありがとう。良かったらもっと聴いていって」
「あ、そういえば私、お遣い頼まれてたんだった! すみません、また来ますので、きょうはこの辺で」
彼女は財布から小銭を何枚か取り出すと、置かれている小さな箱に入れた。なんとなく気が引けたので、僕も彼女に習って小銭を投じた。
「また来てね。いつでも待ってるから」
それは僕に向けられた言葉のように思えた。
「すみません、部長。急に誘ってしまって。迷惑でしたか……?」
駅に戻りながら、春山クンが言った。
「いや、時間を潰すにはちょうど良かったよ」
「あはは……」
僕の返事に彼女は苦笑いをした。
ただの時間つぶしに聴いただけ。それ以上のことはないはずだった。なのに僕は妙なことを口走る。
「……あの三人組は、いつもあそこでやっているのかい?」
「え? ……三日に一回くらい、夜になるとあの場所で歌ってますけど」
「そう……」
「……ひょっとして、気に入ってくれたんですか? っていうか、ボーカルが水沢先輩のお姉さんなんですもんね。知り合いだったなら、興味もわきますよね!」
春山クンはますますテンションを高くして満面の笑みを浮かべている。一方の僕は、なぜそんなことを知りたいと思ったのか考えていた。相手が麗華さんだったからなのか、純粋にあの歌に惹かれたのか。答えを探そうとするが、見つからなかった。
本当に急いでいるらしい春山クンは、そんな僕には気づいていないようだ。
「また誘いますね。今日はこれで失礼します。お疲れさまでした」
といって、本来の目的を果たすため、足早に去って行った。
*
春山クンと別れて駅に戻ると、折しも電車が運転を再開したところだった。駅にいた人間が一斉に動き出した。ホームはきっとごった返しているだろう。
僕は人がはけるまで、しばし改札の前で待つことにした。そこへ、水沢がやってきた。
「あっ……」
彼はばつが悪そうに立ち止まった。まさか僕がここにいるとは思っていなかったのだろう。隣には思った通り、「彼女」がいる。
「先に帰ってろって言ったじゃん」
「電車が動いてなかったんだ、仕方がない」
「……あのさ、永江」
彼はそう言ったきりしばらく黙った。
さっき聴いた歌詞がにわかによみがえり、再び胸が痛む。
とっさに言いかけた、彼を非難する言葉を僕はぐっと飲み込んだ。
分かってる。僕は僕の正義を振りかざし、水沢を裁きたいだけ。言っても互いに傷つくのは目に見えている。冷静になれ、と自分に言い聞かせ、気持ちを落ち着かせる。
やがて彼は口を開く。
「大会が終わったらちゃんと伝えるつもりだったんだ。ごめん。
……彼女には、大会中は会えないって、そう伝えたところ。それまで我慢してもらうつもりで、今日会ったんだ」
「ああ。そんなことだろうと思ってたさ。けど、そう言うんならちゃんと気持ちを切り替えてもらわないと困るよ。本郷クンのことがあったばかりなんだからね」
「うん、分かってるよ俺だって」
「なら、いい。僕からはこれ以上言うことはない」
どんなに癇(かん)に障ることがあっても、怒りが噴出することはまずない。母親を殴りつけたあの日にすべての怒りを出し尽くしてしまったのかも知れない。
それから僕らは帰宅の途についたが、その間、一言も口を利かなかった。
たった一度聴いただけの曲が、頭の中で何度も繰り返し流れている。その間は、野球のことも、隣にいる水沢のことも、ましてやその彼女のことなど少しも考えなかった。
野球から離れることは、僕にとって「死」にも匹敵するほどの怖さを持つはずだった。だからこそ、ずっと野球にしがみついてきたのだ。
なのに、大会を目の前に控えたときに限って、僕の脳内は初めて聴いた曲に占領されてしまっている。追い出そうとすればするほどダメだ。
水沢の家に着き、夕食を済ませたあとで僕はいつものようにバットを持ち、外に出た。けれども、やはり振り続けることが出来なかった。一緒に素振りをしていた水沢も手を止めた。
「どうした? 調子が出ないのか? それとも……。俺のこと、怒ってんの?」
「いや、何でもない。……水沢、きょうはバッティングに付き合ってくれないかな。無心になりたい」
「いいけど……」
釈然としない様子の水沢だったが、僕の言った通りにしてくれた。
水沢が投げた球を、庭の一角に置かれたバッティング用のネットに向かってひたすら打つ。白球を捉えることに集中することで、頭の中はしだいに空っぽになる。
50球などあっという間に打ち終え、それを拾っては繰り返す。
「おい、もう勘弁してくれよ……」
球拾いを五回させても僕の気は晴れなかった。
「やっぱり何かあったろう?」
「…………」
僕が黙していると、水沢のスマホが大音量で鳴り出した。
「おっと、電話電話ー」
僕のバッティングから逃れる口実が出来たとばかりに、彼はいそいそとその場を離れた。しかし話しぶりから、相手が誰かを知ることになる。
3
彼女からの電話かも、と慌てて出る。しかし聞こえてきたのは馴染みのある声だった。
『庸平(ようへい)? あたし、麗華。まだ、起きてた?』
大学生活をエンジョイしている姉からだった。この頃は年始にしか帰ってこないから、今は何をしているのかさえ知らない。その姉が、一体何の用だって言うんだ?
「起きてるも何も、まだ九時だろう? いつまでも子供扱いすんなよ。もう、高三だぜ? 今、バッティング練習してたとこ。大会が近いからな」
『そうよね……。コウちゃん、近くにいるの?』
「ああ。今、庭にいる。俺はちょっと離れたとこに移動したけど、それがどうした?」
永江が、大会の前や大会中、うちに泊まり込んで遅くまで一緒に練習しているのを姉も知っている。もう、四、五年続いている恒例行事みたいなものだ。
俺の返答を聞いて、姉は少し声を抑えて言う。
『実はきょう、久しぶりに再会したのよ。川越駅で。あたし今、大学の友人とストリートミュージシャンしてるんだけど、そうしたら……』
「は? 姉ちゃん、何してんだよ。歌、歌ってるって……」
変わり者の姉だとは思っていたが、また妙なことを始めたものだ。しかもその歌を永江が聴いた?
「あー、なるほど。それで様子がおかしいのか」
つついても口を閉ざすばっかりだった理由も、姉が絡んでいるならうなずける。
『様子がおかしいって……。やっぱりそうなんだ』
姉はため息を一つ吐き、こう続ける。
『なんか、元気なかったのよね、コウちゃん。でもすぐに帰っちゃったから、あの後どうしたかなって心配で』
「大会の前だからピリピリしてるだけじゃないか?」
『……あの子、前々から野球のことしか頭にないって感じで、放っておけないところがあるじゃない? 今日会ったとき、ますますそれに磨きがかかってるように見えてちょっと怖かったんだよね』
「姉ちゃんもそう思う? 実はさ……」
永江に聞こえないよう声を絞り、先日あいつとした会話をかいつまんで伝えた。姉はそれを、電話の向こうで静かに聞いていた。
『……甲子園には行けそうなの?』
「そんなの、やってみないと分からない。大体、あんなのは運もあるし」
『そうよね。……頑張ってよ、庸平。コウちゃんを救うためにも。あたしもできる限り協力するから』
協力って、一体何をしてくれるんだろう? と思ったが、聞くに聞けなかった。
納得したのか、姉は『じゃあね、おやすみ』と言ってあっさりと電話を切った。
まったく、俺のことは気にかけてくれない当たり、姉らしい。姉にとって永江は、実の弟の俺よりも世話を焼きたい存在のようだ。ひょっとしたら好きなのかもしれない。
無口で勉強もスポーツも出来る男は人気がある。クラスの中にも、永江のことが好きだと言っている女子がいる。あいつだけはやめとけって感じだけど。
*
七月十日。大会初戦は一対零で辛くも勝利した。監督の采配が功を奏したから良かったものの、この試合は、本当の意味では負けたと言ってもいいくらいにひどかった。
チームが一つにまとまらなかったのは、永江が一人で空回りしてたせいだ。みんな、永江のやることなすことすべてについて行けない。そんなんじゃ、次の試合は本当に負けてしまうだろう。
「何、あの叱り方。ショートが内野ゴロを取り損なったからって、みんなの前で言うことなかったじゃん。あんなふうに言われたら誰だって緊張して動けなくなるに決まってるよ」
試合が終わったあとのミーティングの場で、俺は思わず永江に言ってしまった。
副部長として、いや、永江に苦言出来る唯一の人間として口を開かなければならないと思ったのだ。
しかし相手は永江だ。言われっぱなしにはならない。
「気が緩んでいたからミスをした、とも考えられるだろう。僕はただ、同じミスをしてほしくないから注意したに過ぎない」
「あのなぁ、チームでやってんだぞ? 一人プレイのスポーツじゃねぇんだ。前にも言ったよな? 永江が一人で頑張ったってどうにかなるもんじゃないって」
「だから全員に、僕と同じかそれ以上のレベルを求めているんじゃないか」
「違う! みんなが『お前』になったら、野球として、チームとして成り立たない!」
「なぜ? 冷静かつ頭脳プレイの出来る人間が多ければ多いほどミスの少ない、堅実なプレイが出来るってもんじゃないのか?」
自分で自分のこと、冷静かつ頭脳プレイの出来る人間って言ってんじゃねえよ。とツッコミを入れようとしたときだ。
「もういいだろう、水沢。永江にはわしから話してやる」
監督はおれたちのやりとりをじっと見守っていたが、ついに沈黙を破った。監督が言えば永江だっておとなしくなるだろう。
「よろしくお願いします」
俺はまだまだいい足りないことを全部飲み込んで監督に託した。
「永江だけ残るように。あとは水沢の指示を仰いで帰る支度を済ませておきなさい。10分後に球場の前で合流しよう」
水沢、後は頼む。と言って監督はチームの統括を俺に任せた。
「よしみんな、初戦突破だ。この調子で次も頑張ろう。きょうはお疲れさん」
俺は部員に声をかけ、ベンチをあとにする。
「僕は何も間違っていません」
「その考えが間違っていると言っているんだ。この際、お前のことはきちんと教育しないといけないな」
後ろで永江が抵抗する声が聞こえた。あいつ、キレたりしないだろうな……?
ちょっと心配になったけど、あとはもう星野監督を信じるしかない。
4
「僕は何も間違っていません」
これは紛れもない真実だ。なぜみんなは、あんなふうにミスをするのか。人間だから仕方ないとか、緊張しているときは誰だってミスくらいするとか言うけれど、全部いいわけだ。全神経を飛んでくる球に意識を集中させれば絶対に捕れるはずなのに。
しかし監督は、そんな僕の考えをへし折るかのようにため息交じりに言った。その考えが間違っている、と。
「永江は昔っから真面目すぎるんだよ。それから頭が固い。自分の意見を持つことは大事だが、柔軟に対処することはもっと大事だ。それこそ、『生きた』野球をしているわしらにとってはな」
「…………」
「話は変わるが、永江は誰かを好きになったことはあるか?」
「……は?」
唐突に何を言い出すのかと思えば。監督は気が狂ってしまったのだろうか。それとも僕の聞き違いだろうか。
「今、なんておっしゃいましたか?」
「恋愛したことあるか、と聞いたんだ」
「……ありません。だって、そんなことに時間を割くのは無意味でしょう? 恋愛している時間があるなら僕は、1分でも長くバットを振ります」
「あー、これだからお前は頭でっかちだと言っているんだ」
監督は手で顔を覆った。
「人は、愛する者のためなら頑張れるものなんだよ。それが恋人でなくてもいい。家族のためであっても、勝利をプレゼントしたいと思えば自然と本領を発揮できる。もちろん日々の努力あってこそだが、そういう心の支えというのは人を強くするものだよ。わしのいうことが分かるか?」
「……よく、分かりません」
「そうだろうな。今のままでは分かるまい。……宿題を出そう。次の試合までに一つ、野球以外で夢中になれるものを見つけてこい。何でもいい、小説を読むのでも、絵を描くのでも、音楽を聴くのでも、ほかのスポーツ観戦でもかまわない」
「そんな……。練習が優先ではないんですか?」
「永江はもう、十分すぎるほど練習に打ち込んでいる。君に足りないものは『情熱』だよ。いや、『愛』と言ってもいいかもしれないな。とにかくそれを持つことだ」
僕が最も嫌っている「愛」を監督が語っているだなんて信じられなかったし、受け入れられなかった。
「宿題は監督命令ですか」
「そうだ。最低でも、見つける努力はするように」
冷静沈着で厳しいイメージしかなかった星野監督。だからこそ、最後の夏の大会で指揮を執ってもらおうと思ったのだ。それなのに、なんということだろう。病気の療養生活が、監督を変えてしまったのだろうか。
僕は混乱していた。そして、そんな頭のままみんなの元に戻らなければならなかった。
「お疲れさん……」
待っていた水沢が僕に声をかけてきた。続けて何かを言おうとしたようだが、その前に監督から耳打ちされて彼は口を閉ざした。
僕だけに課された宿題。これは僕がこれまで出されたものの中で最も難易度の高いものだ。数字でも形でもない、目に見えない「愛」というものを自分の中に見つけろ、だなんて。
帰りしなの電車の中で、僕は何も考えることが出来なかった。思考停止、とでも言えばいいだろうか。水沢が「降りるぞ」というまで、下車駅に着いたことすら気がつかないほど頭の中は真っ白だった。
さすがにおかしいと思ったのだろう。駅の改札口を出たところで水沢が怪訝な顔で言う。
「いったい何を吹き込まれたんだ? 監督は上手く説得できたって言ってたけど、お前の様子見てたらとてもそうは思えない」
「んー……」
水沢に言うか、言うまいか。激しく葛藤する。しかし、一週間で監督命令と言われた宿題の答えを見つけられる自信がなかった。
「ああーっ……!!」
僕は空に向かって吠えた。
「何だよ、急に大声出したりして」
「……笑わずに聞いてほしい。もし、彼女が君に『次の試合でホームランを打ってほしい』と頼んできたら打てるか?」
水沢は目を丸くしたが、しばらく考えたあとで、
「……そうだなぁ。たぶん、ものすごい集中力を発揮して狙いに行くだろうな。彼女の姿が見えたら、そこに打つかもしれない」
「そうか。やはりそういうものなのか……」
「……監督に、何を言われたんだよ? まさか、彼女作れって言われたわけじゃないだろう?」
「似たようなもんだ」
「うへぇ! あの監督がそんなことを! 変わったなぁ」
驚く水沢に、僕は監督の言った「宿題」について話した。
「やっとつじつまが合ったぜ。なるほど、そういうことか。よりによって『愛』とはね。お前も大変な宿題を出されちまったな」
「僕はどうしたらいい? 愛の『あ』の字も分からないんだぞ?」
「そう言われてもな。まずは、身近な女の子と話してみれば? そうだなぁ、例えば春山とか。あの子なら話しかけやすいだろう? それに春山は、本郷のことが好きでずっと野球続けてきたって噂もあるくらいだ。何かヒントが得られるかも知れないぜ?」
「春山クン、か」
つぶやいてはみたものの、このときは彼女に対して特別な思いは抱かなかった。
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