文明の利器に頼りきった僕たちは。
ここ数年の夏の暑さに比べると、比較的涼しいほうやなと実感している今日この頃です。
しかし、雨の降り方が極端で少し前までの日本の梅雨とはまた違った雰囲気がしています。
日本という自然災害が多い国に生まれた割に、住んでいる地域が比較的被害が少ないということもあって、危機感がなかったのですが、最近は防災対策に興味を持ち出したところです。
備えあれば憂いなし。という言葉がありますが、いざという時に何もできずにいても許されるような年齢でもないので、いざという時に身近な人(自分も含む)を助けられる自分でありたいと目覚めかけているところです。
こんにちは、色波です。
今日は文明の利器についてぼくが感じていることを書いていきたいと思います。
当たり前じゃなかったものが当たり前になった
ここ30年ほどで人々の生活は大きく変わりましたよね。
パソコンが家にある家庭が珍しかった時代から比べると、今はパソコンがない家を探すほうが大変だったりします。
それ以上に変わったものが電話ですよね。
携帯電話というものが普及していなかった頃は家の電話(固定電話)が当たり前で、今ではほとんどのやりとりをスマホ(携帯電話)でしていますよね。
ぼくが子供だったときは、まだ家の電話が主流で友達の家の電話番号とかも覚えていたものです。
今となっては名前登録しておけば番号なんて覚えなくてもかけられるし、そもそもLINE電話とかその他にも電話をかけられるサービスが増えましたから電話番号にかけるってことすら少なくなってきたかもしれませんね。
このように文明の変化とともに僕たちの生活は変わってきました。
当たり前じゃなかったものが当たり前になったんですよね。
超高速社会
インターネットや通信機器の進化、普及に伴って社会のスピードがめちゃくちゃ早くなりましたよね。
アナログだったものがデジタル化されて、効率化効率化で色んなものがどんどん時間短縮されてきました。
でも、どうでしょう?時間が余って余って仕方ないわーって言うてる人って果たしてどれくらいいるのでしょうか。
色んなことが便利になって、スピーディーになって、効率化されたはずの社会なのに時間に余裕がある人が増えたわけでもなく、むしろ時間がない時間がないという声をよく聞きませんか?
なんででしょうね?
便利になって、スピーディーになって、効率化された社会って良いと思っていたけれど、それに伴ってひとりひとりの時間の余裕が作られていないってことは果たしてほんまに良い社会なのでしょうか?
便利になりすぎた世界
最近はキャッシュレスが当たり前のようになってきましたよね。
パソコンやスマホのようにこれからどんどん日常に溶け込んでくるのかなぁと思うと、便利で良いなぁと思う部分と危機感を感じる部分とあります。
今までもクレジットカードなどで決済とかもされてきましたけれど、これから先キャッシュレスのシステムが100%なんの問題もなく運用されるとも限らないというところ。
スマホやパソコンも同じことが言えると思っていて、どっかの誰かから流れてくるウイルスとの戦いであることは間違いなくて、こんなに便利になった今でもいたちごっこが続いている。
そもそも電気がないと何もできないようになっている社会って恐怖やなって思っていて、電気がなくなると現代の人間は生きていけるのだろうか?
結局人間が作り出したものなんて永遠に残ることはないのだから、万が一地球に変化が起こったときに今までの生活スタイルを捨てて即座に対応できるかと言われたらできますとは言えないのではないだろうか。
文明の利器には感謝をしつつ、それらがなくなったときに自分はどうなるんだろうかと考えを巡らせることは不毛なんだろうか?
今、嬉々として流行りに乗っかって日常的に使っているものは果たして本当に自分が欲しいものだろうか?
生きるための知恵を放り投げてしまった現代人はこのまま平穏に暮らしていけるのだろうか?
こんな風に色々と思考を巡らせる時間もないのが現代人なのかもしれない。
余白を生み出す
ぼく自身は本当に時間の使い方が上手くなくて、不器用で余白とは無縁の人間だったんですよね。
スケジュール帳に少しでも隙間があると予定を入れてしまうし、好奇心旺盛で興味を持ったらやりたい!ってなるから衝動を抑えきれずにやってしまうし、何をやりたいのか何をやってるのかすらもわからなくなったりしたんですよね。
今もたいして変わっていないんだけど、余白というものを意識するようになってから見える世界が変わったんですよね。
今までは何でもかんでも詰め込めばいいやって思っていたことが、余白を作ることを意識したことによって心も体もふわっと軽くなったというか楽になった感覚があるんですよね。
ぼくが偉そうに言うようなことでもないかもしれませんが、現代人に足りていないのは余白を作ることなのかもしれませんね。
日常の時間はたっぷり文明の利器たちが効率化して空けてくれようとして作ってくれてるわけですから、本来の自分というものを取り戻す時間ぐらいは作ってあげてもいいんじゃないかなと思うわけなんです。
何もしないことをするって必要だと思うんですよね。
人によっては時間の無駄だと言う人もいるかもしれませんが、時間の無駄ではないです。
何もしないということをして、それによって仕事の効率が落ちたりしたら無駄かもしれませんが、逆に効率が上がったら無駄どころか素晴らしい時間になりますよね。
何もしない時間を無駄にするかどうかは自分次第なんですよね。
まあ何もしないと言っても実際ほんまに何にもしない人なんていないと思いますから、それぐらいの心と身体に余裕を持つことが大切なんじゃないかなということにしておきましょう。
むすび
今日は文明の利器に頼りきった僕たちについて書いてみました。
便利になった反面、ぼくたちは人間として生きているのかなと思うこともあります。
どっかの誰かによって作られたものに囲まれた日々、何も考えなくても体力をほとんど使わなくても自宅近くから離れた場所にある会社や学校近くまで運んでくれる乗り物、自分で栽培せず、自分で狩猟をするわけでもないのに毎日のように美味しいご飯が食べられる。
これってとても幸せなことだと思うけれど、もしそれらが全てなくなったとき自分は自分で生きていけるのだろうか。
ふと不安になることがあります。
今回はそんなぼくの普段考えている脳内を少しさらけ出してみました。
あと、防災について少し学ぼうと思っている今日この頃です。
生きる知恵を蓄えたいし、実践できるようになりたい。
今日も今日とて長い文章になりましたが、最後まで読んでいただきまして有難うございます。
また文章越しですが、お会いできることを楽しみにしています。
〝いろはの音〟執筆者の色波でした。
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