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自分を表現するということ。

気づけばもう7月ですね。

もう少ししたらセミの喧しい声が鳴り響いて、もっくもくの雲が出現したり、雷ゴロゴロ鳴っちゃうんでしょうね。

台風だー大雨だーってわーわーしてたらあっという間にセミの鳴き声もどんどん小さくなっていって、秋が来るんでしょうね。

今日は表現について書いていこうかと思います。


赤ちゃんは最強の表現者

当たり前やけど、ぼくたちは誰しもが赤ちゃんでしたよね。

人間の赤ちゃんの頃ってとても無防備で大人がいないと生きていけない。

だからこそなのかわからないけれど、赤ちゃんは言葉こそは話せないけれど、全身で感情を表現するし、全身で生きているっていうことを表現する。

恥ずかしいとかないし、気を遣うことなんてない。

そんな赤ちゃんをぼくは可愛いなと思うし、カッコいいなとすら思う。

大人ができないことを自然に出来ちゃうんだもん。カッコいいよ。


子供に学ぶ表現

大人の言うことを聞いている子は良い子だと良く言われるけれど、表現に関しては良い子なのか?と疑問に思うことがある。

大人の言うことを聞いているだけの子が果たして創造性を養えるんだろうか?

確かにある程度の技術を学ぶことはいいことなのかもしれないけれど、自分自身の内側から溢れ出るものっていうものは教えられてどうにかなるものではないと思うんだ。

自分の頭で考える、自分の身体で覚える。

何よりも深く刻まれるものだと思う。

誰かの言いなりになりたくて表現活動をしているわけではないだろう?

表現したいものがあるのなら自分と向き合って自分の表現を表に出せば良い。

それを自然と出来ているのは子供の方ができていると思う。

そして大人はその機会をなるべく奪ってはいけないんだと思う。

もちろん安全には配慮しないといけないけれど。


日常生活にもまれて

日常生活を送ることに必死になって、表現することが出来ない日々が続いていた。

何かを作るってすごいエネルギーが必要だから、生きていくためには〝普通〟に生きるしかなかった。

決められた時間に家を出て決められて時間だけ働いて決められた時間まで働く。

そして決められた日に決められただけの給料をいただく。

それが悪いこととは思わないし、安定していて良いと思う。

でも、表現したい気持ちは抑えられなかった。

働きながら表現を続ける道を選んだ。

別に偉いこととも思っていないし、すごいこととも思っていない。

ただ、仕事に支障がないようにしないといけないのがもどかしかった。

まぁこれはぼく自身が思い込んでいただけなので、今思えばなんとでもなったんだろうけど。

でもここ数年通ってきた道は決して悪いとは思っていない。

色んな経験もできたし、色んな人にも出会えたから。


表現の壁を越える

高校2年生の頃から作詞を始めていた。

その後、ボイストレーニングの学校に行って歌を歌い出した。

そして、音楽から少し距離を置いた後に筆文字での表現を始めた。

漫才を始めた。

また音楽を始めるかもしれない。

色んな表現者の方と出会うことが多くなって世界が広がった。

最近ようやく自分と向き合い続けてきて気付いたんだけど、ぼくは表現に対して正解を求めすぎていた。

正解なんてないのに。

気付いてしまったからには、これまでの自分ではいられない。

自分を表現するって自分の表現に責任を持つことでもあると思う。

こんな風に言うと重く聞こえてしまうかもしれないけれど、確かにそうだなって思うことだから仕方がない。

ぼくはぼく自身が表現することに責任を持つ。

誰かのための表現があっても良いし、自分のための表現があっても良い。

どちらにしても自分のためになるし、誰かのためになるのだから。

目の前に立ちはだかる壁は、越えてしまえばなんてこともない高さだったんだなと思える日が来る。

あの日見ていた景色は薄暗くて色も何もないところだったよね。

今は少しだけ明るくなって色んな色が日常を彩っているよ。


むすび

今日は表現について書きました。

表現をすること、表現者ってこうでなくてはならないってずっと思い込んできたけれど、正解なんてものはなくて、文字通り〝生み出すもの、創り出すもの〟だから本当の意味での表現者は誰にでもなれるんだということを書きたかったです。

アートやエンターテインメントと呼ばれるものだけが表現ではなくて、日常生活の中にも表現は溢れている。

そんな地球に生まれて、地球で生きられて幸せだと思います。



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