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ぼくがぼくでいられる瞬間。

7月ってもう暑くて夏ってイメージやけど、実はしばらくは梅雨の時期が続くから雨が多くてジメジメしてますね。

どうも色波です。

今日は昨日に引き続きまして、表現について書いていこうかと思います。


作るということ

ぼくは最近までずっと自分の作品のことを愛せませんでした。

と言うと極端に聞こえてしまうかもしれませんが、自分の中から出ていったものに関しては興味を失ってしまっていたんです。

3〜4年ほど前にキングコングの西野さんにハマっていた時に西野さんが話されていた言葉が印象的でした。

「自分の作った作品を届けるまでが作品を作った親の仕事である」

言葉は違うし、もっとたくさん言ってはりましたけど、詳しくは西野さんのブログを見てください。

この言葉を聞いた当時のぼくは「すごいなー、プロフェッショナルってこういうところまで考えるんだ」と感動したのを覚えています。

この時のぼくは表現者として活動をしておらず、感動はしたもののなんとなく他人事って感じでした。

ほどなくして、表現活動を再開したのですが、依然として自分の作品を愛することができませんでした。

そのことについて悩んでいましたが、向き合おうとはしていなかったのかもしれません。

そんな状態でも色んな方と出会い、色んな場所で活動をさせていただく機会が増えてきた時に自分の作品を愛せていないのにそれを届けるなんて作品の親としてどうなんだと思うようになりました。

届ける相手がいて、作るということは必ずそこに愛はあるはずだ。

きちんと自分と自分の作品と向き合おうと思いました。

作るときに自己満足ではなくて届ける相手の手元に届くまでを想う。

届け切るまで責任を持つ。

ようやく西野さんの話していた言葉が自分ごととして腑に落ちました。


ぼくがぼくでいられる瞬間

それは作品を作っている時なんだということ。

日常生活では他者との関わりがある以上、ぼくがぼくでなくなる時があります。

それは日常生活を送る上で仕方のないこともあったりしますが、作品を作る時は誰も入り込む余地のない自分だけの世界に没頭できるのです。

もしかすると意識していなかっただけでもっと前の子供の頃からあったのかもしれません。

何かを作るときは没頭しているので、他の何かが入り込む余地がないのです。

作詞をしていたらご飯も食べずに日が暮れていたとか、動画編集していたら気づけば外が明るくなっていたとか、筆文字を書いていたら日常の嫌なことも忘れていたとか。

何かに没頭している時って素晴らしく他のものが入り込めないんです。

本を読んでいる時に誰かに話しかけられても話が入ってこないように、何かを作っている時っていうのは完全にその世界に入り込んでいるからその瞬間だけはその作品の世界の住人なんです。

きっとぼくがぼくでいられる瞬間は何かに没頭している時。


表現者として

これまでは日常の自分と表現者としての自分とのギャップに苦しみ、折り合いがうまくつけられなかったけれど、これからは表現者としての自分を日常生活にも落とし込んで完全体表現者として生きていきます。

どんな表現方法であろうとも素晴らしいところは多くある。

一番大事なのは自分という命をどのように表現していくか。

内側を深めつつ、外側にブワッと発信していく。


むすび

今日はぼくがぼくでいられる瞬間ということで書きました。

みんなそれぞれ自分が自分でいられる瞬間ってきっとあると思うんだけど、ぼくの場合は作品を作っている時とか何かに没頭している時。

その作品の世界の住人になっている時が一番ぼくがぼくでいられる瞬間。

いつも最後まで読んでいただきまして有難うございます。

また、こちらの世界でお会いしましょう。

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