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"ちゃんと"忘れゆく日々のこと。


これまで何度も何度も
繰り返し書いてきたこと。

人は忘れてゆく生き物で、
忘れてゆくから生きていける。

これはわたしにとってとても大切なことで
この思いがあったから生きてこられたと
言ってもいいくらい。

どんなに大切な人でも、
家族や友人や恋人や、
どんな人でもどんな関係性でも、
例えば会わなく(会えなく)なったら、
一切かかわり合うことがなくなったら、
5年10年20年…と時間が過ぎてゆくとき、
はっきりと覚えていることや
忘れられないことに加えて、
忘れていってしまうことが
必ず、同時に存在する。

すべてを鮮明に、
何十年間も記憶しておくこと、
何ひとつ忘れずにいることは、
ほぼ不可能だ。

どんなに大切な人でも、強く激しく憎んだ人でも、
それまでどれほどの時間を共にしていても、
そこにあったものが、愛でも憎しみでも恨みでも
その他のどんな感情でも、

ちゃんと、忘れてゆく。

記憶なんてそんなものだから、
日常の中に紛れ込むささいな出来事なんて
あっという間に忘れてゆく。

激情を抱いた出来事や相手のことさえ
長い時間が経てば忘れてゆくのに、
自分の心がほんのわずかに動いたことなど
きっと、あっという間に忘れてしまう。

だからこうして
書いているのかもしれないし、
書くことが恐ろしいと感じることがあるのも
同じ理由からなのかもしれない。

過去の思いや記憶、痛みや息苦しさ、
一瞬のときめき、喜び、虚しさ、切なさ、
そんなもの全てが文字に残っていたら
懐かしく喜ばしいものもあれば、
そうでないものたちも、必ず出てくるだろう。
noteという人の目に触れる場所では、
書けないことや想いもたくさんある。

それでもこうして、日々のあれやこれやを
意味があってもなくても書き綴っている。

時々、なぜ書くのかと自分に問いかけながら、
なぜだろうね、と答えながらも。

意味なんてない、意味なんて必要ない、
そう、思いながら。

言葉にしたいことはもちろん、
言葉にならないような想いですら、
言葉にしようともがいてることも。

そんな日々のことを、
もし10年後、20年後、自分がまだ生きていて、
そしてこんなふうに書いていることを、
こんなふうに書く自分を、未来のわたしが見たら
どんなふうに感じるだろう。


笑って、「アホやなぁ」って言えてるだろうか。

20年前のわたしを、今のわたしが
鼻の奥がツンとする思いと
きらりと光る雫を目尻に添えて、
笑えるのと同じように。


見出し画像に使用した写真。
光が強ければ強いほど、影は必ず濃くなる。
眩しい記憶の裏側には、
かならず深く濃い影の記憶がある。


それでは今日はこの辺で。


最後まで読んでくださってありがとう。

また気が向いたら、来てくださいね。


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