100歳が語る『戦後生まれのあなたへ』
昨日、12月8日は、真珠湾攻撃からちょうど80年だったそうです。
戦後、「戦争はダメだ」「決して繰り返してはならない」というのは、度々耳にしてきましたが、
『戦前の様子』を鮮明に語っていただける機会は、どれほどあるでしょうか?
北九州市小倉北区にお住まいの、100歳の百寿を迎えられた杉本さんというおじいちゃんが、
戦前、戦後、これからの日本や世の中のことを語った内容の動画を拝聴させていただきました。
この貴重な企画を、実施・配信していただいた到津市民センターの皆さまにはとても感謝しています。
大正生まれだったぼくの祖父も、兵役で戦地に行き、
また祖母も小倉の女学校で武器や爆弾を作っていたと、
2人とも生前は、しばしばその頃の話を聞かせてもらいました。
ぼくは、祖父母ほどリアルに戦争を感じることはできませんが、当事者から話を聞くことができた世代で、僕自身は「準当事者」だと思いたいです。
当時20歳で戦争に突入していった杉本さんのお話を聴けたぼくなりに、当事者として、杉本さんのお話をまとめてみたいと思います。
①戦前の日本の様子
今からは考えられない思想・文化かもしれませんが、
「戦争は正義」
「国のためと信じて」
「国に命を捧げる」
と教育され、みなそう思っていたそうです。
第一次大戦に続き、第二次大戦に突入していったときに、誰もが我が国の戦争での勝利を思っていたそうです。
20歳になると兵役があり、杉本さんも海軍に入ったとのことです。
佐世保にある海軍の基地で、戦地に向かう前に、慣例としての
家族との『お別れの面会』があったそうです。
現在ほど交通網が発達していないなか、当時40歳のお母さんが、小倉から長崎まで夜行列車にのり、20歳の杉本さんに「お別れの面会」にきたそうです。
言葉いわずとも、母子の想いが目を見て伝わったそうです。
このお母さまの年齢に近いぼくですが、そのときのことに想いを馳せても想像もつきません。
当時は、そんな文化・風潮だったということです。
人を殺すという恐ろしさだけでなく、こうした人の心や文化さえも影響がある戦争の恐ろしさを感じました。
②敗戦国の辛さ
お国のためにと散っていった兵士たち。
杉本さんの戦艦は無事だったそうですが、
8月15日の終戦の連絡を受けた夜、
艦内に銃声が響き、杉本さんの戦艦の艦長が、自室で自決したとのことでした。
また、海軍は海での戦いで、海の中に眠る遺体・遺骨の収拾はされていないとのことです。
いまだに、この広い冷たい海の底には、国のためにと命を賭して戦った多くの若者たちの魂が眠っているのです。
戦前や戦中は、国のためにと命を懸けながも、
敗戦国になると「戦犯」になったという話も印象的でした。
③戦後の世の中とこれから
戦後の高度経済成長で、経済は発展するも、公害をはじめとした地球温暖化などの課題を生んでしまった。
また、原発を含めた核の廃止、廃絶はまだ道筋すら見えていません。
地球温暖化に影響する環境破壊により、頻発する災害。
核の問題など、後世に多くの課題を残してしまった。
だけど、「平和である」ということを守り続けてこれたことは良かったとおっしゃっていました。
多くの課題がある世の中だが、今後も平和な世の中が続いていくことを願っているとのことです。
④戦争をしない、その想い
「こんな戦争は二度としてはならない。」
と杉本さんはおっしゃいます。
そして、こう続けられました。
世の中の半分は女性だ。
女性のもつ愛、優しさ、母性愛で、
戦争のない世の中に、
明るく安らかな世の中になっていってほしい。
1時間のお話のなかで、2度このことをおっしゃいました。
「戦後」という言葉も馴染まなくなってきている現代です。
世代が変われば、想いを引き継いでいくことは伝言ゲームのようになります。
当時を生き抜いてきた人から話を聴けるぼくたちが、世代間の当事者として、歴史は繰り返さぬよう、心を配っていくことが必要だと思っています。
大戦に突入していくきっかけとなった「真珠湾攻撃」から80年。
想像も及びませんが、当時の若者の気持ちに想いを馳せてみたいと思います。関連の新聞記事もいくつも出ていました。
ぼくのちっぽけなこの記事も、
この時代の記録としてアーカイブされ、
またこの記事をご覧いただいた方にも、ほんの少しでも、気持ちが伝播すると良いなと思います。
以前に同様のことを書いた記事です。
今日もご覧いただきありがとうございました。