#562 社会に「適合できない」こと
私が物事に対して様々な「疑問」を持つようになったのは、その家庭環境があったからかもしれません。
私の家庭は大変アカデミックな家庭でしたが、一方でその価値基準は非常に狭いものでした。私は特に中学時代は学業がすこぶる悪く、その度に家庭からの叱責を受けました。ある一定の価値基準によって支配されてい狭い世界において、自分が望んだ評価を受けることができなかった私は、その世界を破壊するために様々な策を巡らすことになるわけですが、それがつまり「疑問を持つこと=問いを立てる」ことでした。もし仮に、私が学業が得意であったならば、そんな疑問は持たなかっただろうし、今でも全ての価値基準が学歴になっていたと思います。
入り口はどうあれ、そんなきっかけを通じて、疑問を持つことは私の生活の中に今ではしっかりと埋め込まれています。それは疑問を持とうと思って持つのではなく、ありとあらゆるものに対して疑問が自然と湧き上がってくる。正直言えば、時として自分自身にめんどくさくなることもあるのですが、これはもはや自然発生的なものなのです。
社会がまだ有能で従順な労働資本を求めていた時代、私は非常に「めんどくさい」存在であり、いわばイレギュラーだったと思います。自分自身を「社会不適合者」であると今でも思っているし、疑問を持つことで自分の居場所を狭くしたことも数え切れません。
しかし徐々に、社会不適合者にも光明がさしてきています。
『「仕返しは悪いこと?」この問いに答えられますか。親子で思考力、言語力を身につける「哲学対話」とは?』という記事の中では、普段の何気ない疑問を真剣に考えることの大切さが述べられています。
以前のコラムでは昨今、大企業は新たな企業的価値を見出すために、哲学的思考を重要視していると述べましたし、私自身も、教員が哲学者になることの大切さを述べました。
今世の中は哲学を求めているのかもしれません。