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#417 教員志望者が減少しているとう事実が決して教育に情熱を持っている人が少ないことにはならないというお話

 私にとって「教育」とは(今のところ)自身のライフワーク的な側面があります。これは自分の今までの人生を振り返った時、教育がその根源的な要素として機能してると思うからに他ならない。何かができる自分、できない自分、できないことを受け入れられる自分、受け入れられない自分、貴村甍という外見的な箱に中に存在する無数の私は、教育というものを通じて形成されているし、これから出会う教育によってまた私自身も変化するでしょう。

 教育は人が幸せに生きていくための社会的基盤であり、その影響は私たちが想像するよりも遥かに大きいのではないか。そんな「教育」の重要性を認識し、教育に関わることで、やりがいを感じる人は実は少なくないのではないかと個人的には感じている。

『オワコン化した従来教育、捨てられる教師の末路』という記事を見つけました。

 学校改革プロデューサー・カリキュラムマネージャーで『捨てられる教師』の著者である石川一郎氏は記事の中で、教育に熱意を持って携わろうとする優秀な人ほど、学校に行かない現状があると指摘し、本来国家の教育の柱となるべき「公教育」が、エアポケット化していると指摘しています。

 教育に関心があり、新しいアイデアのある人ほど、「学校ではないところ」で教育に関わろうとする。裏を返せば、旧来の価値観や手法のままでいい、学校に変化など必要ないとする保守的な人たちが学校に集まる傾向があるというわけです。採用側である学校としても、今までの自分たちのやり方を否定されたくありません。となると熱い教育改革論をぶつけてくる人よりも、早々に自分たちの色に染まってくれそうな人のほうが好ましいので、いくら新しい人材を採用しても、一向に変化は起こらない。それどころか旧来の価値観や手法が固定化し、強化されやすいのです。かくして、世の中は刻一刻と変化しているというのに、学校だけは取り残されたまま日本国内のガラパゴスと化していることは否めません。

 当たり前の話ですが、社会が急速に変容している現代において、学校が変化しないことは事実上不可能。それはなぜなら、教育とは決して普遍的なものではないし、時代や社会の変化を影響を受ける。個人的には社会に追随するのではなく、社会を引っ張る形であって欲しい。

 今、私がコラムで書いている内容は、とても「自然なこと」と個人的には思っています。しかし、学校に求められる変化は決して自然には起きないのです。だからこそ、私の活動は意味があるとも思うのです。

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