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#480 学びの本質ではない「入試」というパワーに、教科・科目の学習を寄せるその姿勢

 2024年は、はや3月。国公立入試も先日終わり、受験生の皆さんも合否発表をドキドキして待っている頃かもしれません。

 入試は「学びの本質」ではありません。入試はあくまで人が学びを進めるための手段にすぎない。それは社会に出れば強く感じることです。学歴社会とは、つまり、本来学びの「手段」であった入試が記号を求める「目的」と変容し、それが資本主義的巨大コンテンツになっていることと言えます。逆に言えば、何かを学ぶための理由として最も安易な方法は、その目的を達成するための必要条件にすること、つまり入試に必要な教科・科目にしてしまうということだと言えるでしょう。

 下の記事にあるように、2025年度入試からは、共通テストに情報の科目が追加されます。現代社会のおける「情報」の大切さを踏まえ、入試科目に入れることで、学習を(ほぼ)強制する形になりました。しかしそれなら、金融教育や性教育など、人が学ぶべきことはどんどん増えるし、それを全て入試科目に入れていけば受験生はパンクします。また先日の古典のコラムではないですが、「役立つ」・「役立たない」の観点で言えば、それ必要なの?みたいなこともたくさんある。世界史だって正直覚える量が多すぎるし、そんな細かい人名なんて知っていても無駄じゃないかと思うこともある。

 卵が先か、鶏が先か。人は入試があるから学習するのか、学習の先に入試があるのか。本来、学びの本質ではない「入試」というパワーに、教科・科目の学習を寄せるその安易な姿勢に、私の「違和感」センサーは反応しています。

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