#288 義務から始まる教育ではなく、意欲から始まる教育を
「〜しなければならない」という言葉があります。私たちは社会の一員として生きていく中で、多くの責任や義務を果たさなくてはいけない。
法令遵守から始まり、納税、勤労、教育(を受けさせる)義務などの国民自身が決めた(日本政府は国民の代表として考えるならば)ものから、日々の会社の業務、納期など。
私たちは人生の中で様々な「ペルソナ」を演じる訳ですが、その役柄ごとに「しなければならない何か」と向き合っていると言えるでしょう。
一方、学校教育では今「主体的」という言葉がキーワードになっています。自身の「意欲」を根源として、自分のやりたいこと、興味・関心があることに突き進んでいくことが大切だと言われています。
『学校に行かないことで偉業を成し遂げた人たち、型にはめる教育の功罪〜仏教が説く、思い通りに行かない世の中を生きる術とは〜』というタイトルのコラムを見つけました。
コラムの著書である高野山真言宗傳燈大阿闍梨大僧正の池口恵観氏は、
と指摘しつつ、エジソンなど学校という「枠」の中にはまらずとも、「主体性」を根源とした学びを進め、結果「偉人」となった人々を紹介しつつ、「学校にいかなければならない」という価値観に疑問を投げかけています。
と述べています。「義務感は自らの意思として持つものである」という言葉を私はある人から言われたことがあります。私の今の仕事は、誰かに何かを強制されることは基本的にありません。しかし、自分の事業をよりよくしていく中で当然自分がやりたくない業務、苦手な業務も存在します。やりたくないな、嫌だなと思うことも多々。だけど、結局それらをやらないと私の仕事はうまく行かない。それらの義務は私自身の「主体性」を自然と伴って来るのです。
「〜しなければならない」ことを誰かに強いられる状況というのは、人間の「自由に生きたい」という本能と相反するもの。私たちは今の時代、「〜しなければならない」と当たり前に感じていることにもう一度向き合う必要があるのだと思います。