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”ほんとう”を追い求めた先にあるもの│ 『銀河鉄道の夜』宮沢賢治

この物語には実に多くの”ほんとう”が出てくる。

「ではみなさんは、そういうふうに川だと云いわれたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか。」
「ああマジェランの星雲だ。さあもうきっとぼくのために、ぼくのおかあさんのために、カムパネルラのために、みんなのために、ほんとうほんとうの幸福をさがすぞ。」

”ほんとう”とは一体何なのだろうか。

宮沢賢治といえば有名だ。
ただ、私の中の宮沢賢治とは『注文の多い料理店』というちょっとミステリアスなお話を書く人。小学校の音楽室の壁に『雨ニモマケズ』の詩があり、それを書いた人。それぐらいの認識でしかなかった。          
学校生活でほんの少し「こんにちは」と挨拶した程度。

そして今月、岸田奈美さんのキナリ読書フェスをきっかけに『銀河鉄道の夜』と向き合い「初めまして」をした。
キナリ読書フェスの締切には間に合わかったが、自分の感じたことや作品の素晴らしさを認識するために社会人になって初めての「読書感想文」を書いてみたいと思う。

ジョバンニ

物語の序盤は、ジョバンニからみた暗い現実が続く。学校では仲間外れにされているし、父親は行方不明で本来、甘えられるはずの母親は病弱で仕事をしなければならずカムパネルラと遊ぶ時間もない。またその仕事場でもからかいの言葉をかけられる。
それでも、ジョバンニは今を懸命に生きようと頑張っているのだ。
そんな健気なジョバンニに追い討ちをかけるようにカムパネルラの死という現実が迫っていると思うと辛く悲しい。
しかし、その辛い現実の前に夢のような銀河鉄道に乗り、美しい景色とカムパネルラや様々な人と対話することで戸惑い嫉妬がありながらも癒され、ジョバンニの全ての心は満たされていく。

「月夜でないよ。銀河だから光るんだよ。」ジョバンニは云いながら、まるではね上りたいくらい愉快になって、足をこつこつ鳴らし、窓から顔を出して、高く高く星めぐりの口笛くちぶえを吹ふきながら一生けん命延びあがって、その天の川の水を、見きわめようとしました(後略)」
ジョバンニが云いました。
僕もうあんな大きな暗やみの中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」

その過程は、読書にも感動を与え安堵することもできる。
ジョバンニはきっとどんな辛い現実が待ち受けていても大丈夫だ、と。

できごと(事実)とほんとう(真実)

「意地悪なザネリを助け優しいカムパネルラが死んだ」

その事実をもしジョバンニが銀河鉄道に乗らずに知ったとしたら、ジョバンニはザネリを深く憎みカムパネルラのこともまたゆるせなかったかもしれない、と私は思えた。過去の感情やできごとにジョバンニがいつまでも囚われてしまう可能性は大いにあった。
人間心理とは複雑なもので誰の命も平等で尊いものなのだが、そこに感情が入るとそうもいかなくなる。ましてや、自分を攻撃していた者が死んだ時と大切に想う者が死んだ時の感情は全く違うものになるだろう。
だが、銀河鉄道に乗ったジョバンニはほんとう(真実)とは何かということを考え、さいわいカムパネルラのために前に進むことを決心している。
事実は真実の一部に過ぎない。
ザネリの親から見た事実は、
「大切な我が子のザネリを友達のカムパネルラが身をもって助けてくれた」となるだろう。
読者感情からしてもザネリはどう見ても意地悪だし好意を持てる人間ではない。
しかし、このカムパネルラの言葉を聞いた時


「ザネリはに帰ったよ。おとうさんが迎えにきたんだ。」

そうだ、ザネリにも親がいて帰る家があるんだ、という当たり前のことではあるが認識する。またザネリは友達に囲まれているしカムパネルラも一緒にいるというところをみるとみんなを惹き付けてまとめる力もあるようだ。
ザネリの友達から見ると「面白いやつ」なのかもしれない。事実は数えきれないほどたくさんある。ただ、ほんとう(真実)はただの一つしかない。
この場合では
「ザネリが生き残りカムパネルラが死んだ」である。
そして、そのほんとうをジョバンニは受け入れ今、すべきこと、自分にできることを考え過去に囚われずに前に進んで生きていくことができるだろう。

カムパネルラは水のように透明で美しく儚い

”カムパネルラ”という人のことを考えた時、私は水のように透明であるように思えた。
一貫して自分のことよりも相手なのだ。
相手の心を写し相手の不安な心を満たそうと行動することにとても長けている。
そのことを思わせる場面が主に3つある。
天の川での授業の時にはジョバンニを気遣い、


そうだ僕は知っていたのだ、勿論もカムパネルラも知っている(中略)
すぐに返事をしなかったのは、このごろぼくが、朝にも午後にも仕事がつらく、学校に出てももうみんなともはきはき遊ばず、カムパネルラともあんまり物を云わないようになったので、カムパネルラがそれを知って気の毒がってわざと返事をしなかったのだ、

川で溺れたザネリを迷いなく助け、

「ザネリがね、舟の上から烏うりのあかりを水の流れる方へ押おしてやろうとしたんだ。そのとき舟がゆれたもんだから水へ落っこったろう。するとカムパネルラがすぐ飛びこんだんだ。 (後略)」

自分が死んだと分かった時にさえ、想うのは残された母親のこと。

おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだろうか。
 (中略)
ぼくはおっかさんが、ほんとうに幸さいわいになるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだろう。」

それは、カムパネルラが優しいということでもあるのだが、どこまでも”自分”というものが軸にないようにも思う。本人はただ相手を見つめ相手の望む自分になっているともいえる。そして、見返りも求めない。全くもって人間くさいところが無く、美しくもあり儚くもある。
こういう人は誰にとっても居心地の良い人間になりえる。
だが、その本人の心は一体誰が満たしてくれたのだろうか、そしてカムパネルラは幸せだったのだろうか、と私はふと思う。
ジョバンニが鳥捕りことを気の毒に思いこう尋ねようとしたことがあった。

ほんとうにあなたのほしいものは一体何ですか、

私はカムパネルラに同じことを尋ねたい。
カムパネルラという人は仲間外れにされているジョバンニよりも更に孤独を抱えているようにも思えた。
カムパネルラは何度も”わからない”と言っている。

ぼくわからない。けれども、誰たれだって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸なんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思う。」
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。
僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。

自分の心を見ようとしても透明だからなのではないだろうか。
ただ、”水”が何で出来ているかは科学によって解き明かされている。
だから、カムパネルラも私が透明なように見えるだけでその実態はもちろんあるのだ。とは言っても、すぐに分かるものではない。
目の前にあるのは透明だから自分の姿がすぐに投影されてしまうし、思い込めばいとも簡単にそうだと思えるので難しい。
水が酸素と水素から出来ていてると分かるまでには、何通りの説もあったのだ。
事実、私は最初カムパネルラのことをなんて愛情深く慈悲深い人なのだろう。と思った。
そして、読み返していくうちにカムパネルラの心の内というものがどうにも見えてこないし、人のしあわせばかりを考えているし、もしかしたら孤独なのではないだろうか。そんなことを思っている。
きっと、これからもカムパネルラの印象というのは変わっていくのだろう。
ただ、ずっと変わらず”ほんとう”のものとしてあのは、カムパネルラはたいへんな”勇気”を持っていて相手を”救った”ということ。
ジョバンニの悪口を言わずザネリを身をもって助ける。これはいくら相手がそう望んでいたとしても勇気がなければ行動できない。
だから私はカムパネルラの勇気を称えたいし、自分にも持っておきたい心意気である。
物語の終盤、ジョバンニは銀河鉄道に乗りながら、カムパネルラにこう伝える。

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸さいわいのためならば僕のからだなんか百ぺん灼やいてもかまわない。」

その言葉が銀河鉄道でみた美しい景色とともにカムパネルラにとっての救いであったと願いたい。

ほんとう(真実)もまたそのものの一部

事実から真実に辿り着いたとしても、そこで完結するわけではない。
カムパネルラが死んだとしてもジョバンニは生きていかなければいけない。
天の川は星の集まりではあるが、それは宇宙の一部である。
そして、その時代の真実は歴史の一部で不変ではない。
ほんとう(真実)はそのものの一部であるということを『銀河鉄道の夜』を読んで私は深く感じた。
そのものは人生であったり、成り立ちであったり様々なもの、全てのこと柄に言える。
そして、その全てのこと柄は大きくみれば繋がってただ一つのものとして完結することなく今も続いているのだ。
宇宙からみた地球は一つではあるのだが、その地球には無数の生命と記憶があるように。
そして、ブルカニロ博士とジョバンニのやり取りを私は心に刻んでいたい。

「このときにはこうなのだ。へんな顔をしてはいけない。ぼくたちはぼくたちのからだだって考えだって、天の川だって汽車だって歴史だって、ただそう感じているのなんだから、そらごらん、ぼくといっしょにすこしこころもちをしずかにしてごらん。いいか。」
そのひとは指を一本あげてしずかにそれをおろしました。
するといきなりジョバンニは自分というものが、じぶんの考えというものが、汽車やその学者や天の川や、みんないっしょにぽかっと光って、しいんとなくなって、ぽかっとともってまたなくなって、そしてその一つがぽかっとともると、あらゆる広い世界ががらんとひらけ、あらゆる歴史がそなわり、すっと消えると、もうがらんとした、ただもうそれっきりになってしまうのを見ました。

宮沢賢治という人はそれぞれの真実やそのものを深く見つめ考え抜き、そして愛していたのだとも感じた。そして、全ての幸せを願っていたのだろう。

どのように生きていくのか

ジョバンニはほんとうのほんとうの幸福を探すために生きていくことを自分の胸に誓っているが、私はどうであろうか。
私は今を楽しく生きているというほんとうに感謝をし、大切な存在を守り応援する者でありたいと思っている。
幼き我が子を見ているとあれやこれやと手を出してしまいたくなるが、それは可能性をなくすことにもなってしまう。親は子の生活や安全は守っていくものだが、子の成長は見守り応援していくものだろう。
私はほんとうに今の日々のひとつひとつが幸福だといえる。そして、私の経験や知識が子の生きる術の一部になるのなら、それもまた幸いだ。
もし子が死んでしまったとしたら、それは胸が張り裂けそうなほど苦しい。
できれば考えたくないことだが、それでもカムパネルラのように、私も含めていつ死が訪れるかは誰にも分からない。
だからこそ、私は今が今としてあることを当たり前と思わずに感謝して生きたい
そして、もし大切な存在を失った時、銀河鉄道に乗り美しい景色を観ることはできただろうか、私も一緒に乗ることができるのなら何を語るのだろうか、星空を見上げながらそんな風に思うかもしれない。

最後に
ここには書ききれなかった想いがまだたくさんあるのだが、自分の中で咀嚼し味わい言葉にできた時にまた記してみたいと思う。
ここまで深く自分の人生や物事を考えるとは思いもよらず、私にとってかけがえのないものをくれた宮沢賢治さん、そしてきっかけを下さった岸田奈美さんに心を込めて「ありがとうございます」

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