『心臓の王国』が刺さって抜けない棘になる
竹宮ゆゆこの『心臓の王国』を読み終えた。
心を揺さぶられ、泣きはらして目元は赤く腫れていた。前日に「ラストマイル」を見ていたので、米津玄師の「がらくた」が自分の中の一番取り出しやすいところにあった。『心臓の王国』にもぴったりな気がする。聞きながら読後の余韻に浸り、一日中『心臓の王国』と、過去に読んだ竹宮ゆゆこ作品の事について考えていた。
今年の春、同著者の『あれは閃光、ぼくらの心中』を読んだ時も、私はぼろぼろと泣いていた。
泣きながらも夢中で読んだ。それと全く同じ体験をしたと言っていい。
竹宮ゆゆこの作品を全て読んではいないので断言はできないが、『いいからしばらく黙ってろ!』で泣いた記憶はないので、竹宮ゆゆこ作品が無条件に全て刺さる、というわけではないと思う。
では『心臓の王国』と『あれは閃光、ぼくらの心中』の共通点はなにか。それは"二人の人間の物語"であるということだ。
『心臓の王国』は男子高校生二人の物語。
『あれは閃光、ぼくらの心中』は中学生男子とホストの物語。
そしてこの二つの物語は、どちらも"自分にとってのたった一人の誰かを見つける"という展開を迎える。
『心臓の王国』も『あれは閃光、ぼくらの心中』も、主人公は色んなものを抱えている。
一見普通のどこにでもいる学生だけど、内側に隠している傷は大きく、それによってひどく不安定で、ほんの少しの刺激で爆発してしまいそうな危うさがある。
そして、そんな崖の淵ギリギリに立つような人間が、世界中でたった一人の誰かを見つける。
そのたった一人の誰かは、自分よりもさらにギリギリのところにいる人間だったりする。
二人は出会う。ぶつかり合ったり理解しあったりする中で、何億といる人間の中で相手こそが自分にとってかけがえのない唯一無二であると知る。
自分の持っているものを全部渡してしまってもいいとすら考える。生まれてきたことの意味。自分の命の使い方さえ決めてしまえる。
相手さえいれば大丈夫だから。傷は消えない。抱えているものを放棄はできない。それでも、相手さえいれば。
遡って考えてみれば、『とらドラ!』もそういう物語だった。
竹宮ゆゆこが繰り返し描くストーリー展開、心理描写、たった一つの星の瞬き。私はそれが好き、心を揺さぶられ、涙がとめられなかった理由は、結局それだけなんだろう。
『心臓の王国』も『あれは閃光、ぼくらの心中』も、最初のリズムが少し掴みにくい作品ではある。
登場人物はみな何かを抱えているのだけれど、それは、登場人物たちが明かしたくなる瞬間まで明かされない。何かあるのだろうなという予感のみが、読者にはある。
それが何なのか分からない。登場人物が何の話をしているのかが分からない。そして、少しずつ掴めてきたかなと思う頃に、怒涛のラストがやってくる。
台詞の意味、行動の意味、いろんなことが繋がってくる。
気持ちよくて、ページを捲る手が止められなくなる。
電車で読みながら泣いてしまって、やばいなと思いながらも閉じられなかった。
ご都合主義というか、あまりに綺麗すぎるというか、でも、物語だからそれでいいと思う。
現実では"自分にとってたった一人のかけがえのない唯一無二"なんか見つけられない人の方が大半で、そもそもそんなものはないのかもしれない。
でも、物語の中だからある。見つけられる。手を離さないでいられる。
鋼太郎だから神威を救えた。
嶋以外は誰も弥勒を自由にできない。
物語だから嘘でいい。嘘でいいなら思いきり美しくていい。ありえないくらいでいい。これこれこれこれ!と思う。私が物語に求めているのはこういうものだ。リアリティのない夢物語だって笑われても、小説は現実離れしているくらいでちょうどいい。
万人におすすめできる小説ではないと思う。ダメな人にはとことん合わないと思うから。
でも私は大好き。心に刺さって抜けない棘になって、またいつか読み返したいとも思う。
本当に本当に烏滸がましいけど、私もこういう小説を書いてみたかったなって、そう思っているのかもしれない。
同じ内容を自分のブログでも公開しています。