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Freedom “to” or Freedom “from”?: コロナ禍の今、大学生の私が思うこと

「2種類の自由があるのです、とリディア小母は言った。したいことをする自由と、嫌なことから解放される自由です。」(“There is more than one kind of freedom, said Aunt Lydia, Freedom to and freedom from.”) (Atwood, The Handmaid’s Tale, 30) (注1)

コロナウイルスが猛威を振るう中、世間では大学の在り方が問われている。

「オンラインでも十分だろう。」

「対面を希望する学生は、遊びたいだけ。」

春には対面で授業を行う大学が多かったものの、秋学期の授業はオンラインで実施することを決定した大学も少なくない。実際、私が在学している学校は当面の間オンラインで授業をすることが決まった。そんな中、声を上げる大学生に対しては、「遊びたいだけ」と厳しい声がかけられる。けれど、このように批判する人の中で、どれほどの人が大学での学問の意義や学生の状況を客観的に判断できているのだろうかと疑問に思わずにはいられない。

こんな状況を見ていたら、「勉強や研究が大好きな」大学生として一筆書いておこうと思わずにはいられなかった。「対面を希望する学生は、遊びたいだけ」という誤謬を少しでも正したい。

はじめに前置きをしておくと、オンライン授業を手放しに批判する意図はないし、何がなんでも対面じゃないと嫌だと駄々をこねたいわけではない。現状を鑑みれば、オンライン授業の方がリスクは少ないし、使い方さえ工夫すればオンライン授業の方が優れている点もあるのだから。また、私がここに書き記すことは、大学生の総意ではないから、もちろん共感できない人もいるだろう。けれど、たとえそうであったとしても、私よりも上の年齢の人、大学の現状を知らない人、そして学生ではなく大学の職員の方々や教授の方々に、一大学生である私が感じていることを目にしてもらえたらと思う。言葉にしなければ、他人には伝わらないのだから。


授業の中身に関する問題

オンラインでも以前のような授業が進められていると思っている人はどれほどいるのだろう。一応私はコロナ禍前に入学しているので、当時と今の授業を運良く(運悪く?)比較することのできる立場にある。体感としては、半分以上の授業の質が下がっている。

普段なら100分ある授業が40分しかなかったり、先生によってはパワーポイントしか配られない授業がある。最悪の場合、音声すらついていない。100分から40分に短縮するには、かなりの単元を省くか、それぞれの単元を広く浅く話すようにしなければならないだろう。先生としては「画面を見続けるのは大変だよね」という優しさなのかもしれないが、あまり私は嬉しくない。学びに来ているのに、学ぶ単元が少なくなるのは不満だし、それぞれの単元を深められないのは残念だ。浅く学ぶのであれば、ただ検索すればいい。

また、学生にストレスを与えないようにという配慮からなのか、レポートやテストの内容が簡単になる授業が多い。最も簡易化したレポートはたったの800字が下限だった(全く影響を受けない、なんなら普段より難しいテストを課す通常営業の先生ももちろんいましたが)。たとえ、簡易化しないテストでも一部の不真面目な生徒の間では、グループラインを作って答えを一緒に考えるカンニングが横行していたため、サボりたい人が恩恵を受けていたと思う。オンラインでは、真面目な人が一番不利だ。(もちろん私は参加を断りました。)

加えてオンラインでは、大抵の授業はカメラオフであるため先生側から生徒の様子が見えないことが多い。オンにすることがルールの授業でも、普段と違って手元までは見えない。そうすると、起こるのが授業のさらなる「一方方向化」である。普段なら、分からなそうな顔してる学生がいたり、まだメモをしてる学生がいたら、もう一度説明を加えてくれたり、一度進行を止めてくれたりするのに対し、オンラインではそれを先生側が感じ取ることができないせいで、生徒が置いてけぼりになりがちな印象を受ける。特に、日本人に多い権威主義的な先生の授業(何かトラブルが生じてることを指摘する以外の発言やチャットでの会話を許さなかったり、zoom にあるリアクションを全く活用しない)にこの傾向が強い。

もちろん、オンラインの方が優れている点もあるし、オンラインでも普段通りの授業の質を保っている先生もいる。まず、優れている点に関して言うならば、オンデマンドなら、対面授業と違って何度も見返すことができるし、メモを取るために動画を止めることもできる。ライブ授業は通学時間を省くことができるし、普段なら教室の後ろの方にいるやる気がない生徒は視界に入らないし、雑音も少ない。周りには自分しかいないから。

オンライン授業の利点に加えて、授業の質に関しては、私が観察している限りライブ授業に関しては、パソコンやテクノロジーに精通していて、zoomに搭載してる機能を積極的に使う先生はオンラインでもなおわかりやすい。チャットを使うことを許してくれる先生の授業では、普段ならあまり発言しない人でも心理的抵抗が少ないのか多く書き込むため、授業が活発になりやすい。

オンデマンド式の授業でも、原稿を作らず、いつも通りの先生で話してくれる教授の授業は楽しい。原稿を作る先生は皆がわかりやすいように、また話を飛ばさないようにとの思いからそうしてくださっているのだろうけれど、普段とは違う無駄がないワントーンの話し方になるため、聞いている側としてはかなり苦痛だ。喩えるなら、イントネーションにクセがないSiriの話をずっと聞いている気分になる。話慣れていない学生なら原稿を作って話した方がいいように思うけれど、話慣れている先生方は100%原稿を読まないでいてくれる方がわかりやすい。


授業外のこと:授業外は「余計」なこと?

ここまで、授業の内容について書いてきたが、何よりも、皆が「無駄」だというものからの学びがなくなるのが虚しい。空きコマに研究室にいる先生方に質問しに行くことも、ふらっと図書館に立ち寄って研究書を読むこともできない。インターネットに転がっている論文を読むこともできるけれど、自分の専門分野の研究の動向をつかんだり、マッピングをする際には研究書を読むほうがやりやすい。自分で買えばいいと思う人もいるかもしれないけれど、研究書は文庫本より遥かに高くて、学生である自分は全てを買うことはできないし、田舎である地元の図書館には、文庫本はあっても研究書は所蔵されていないことが多い。

資料の問題に加えて、オンラインだと何故か先生は「無駄話」をしなくなる傾向がある。特に、録画タイプの講義で原稿を作っている先生だと顕著だ。きっと、先生の目の前にあるのは生徒ではなくて、文字だからなのだと思う。目の前に反応してくれる学生がいるかいないかは意外と重要なことなのかもしれない。ただでさえ授業の時間が短くなることで、授業の内容が浅くなっていることが多いのに、普段と違って授業から派生した学びが少なくなるのだ。普段なら、もっと幅広く関連のある内容を話してくれるのに。

また、「大学生は遊んでいるだけ」という自分も周りも遊んでた人には分からないかもしれないけれど、友人と研究の話をする機会も圧倒的に減ったように思う。普段なら、友達に「なんの課題?」、「なんのレポート?」、「あの授業どう?」と話をしたり、駅までの帰り道に学んだことを議論し合ったり、授業前に本を読んでいる友達に声をかけて今まで知らなかった本を知ることができるのに、それができない。部屋番号とパスワードさえ入力すれば目の前に現れる「教室」と「友人」は、「退出」の文字を押すだけで目の前から消えてしまう。新しい学校では、人と人が速く簡単に「繋がる」ことができる反面、離れることも簡単で、脆く儚い。


まとめ

「オンラインでも十分だろう。」

「対面を希望する学生は、遊びたいだけ。」

と言う意見を聞くことがある。しかし、本当にそうだろうか。

オンライン授業を受けている立場からすれば、対面よりもオンラインの方がサボりやすく、その分遊びやすい。カメラオフのライブ授業では、そこにいなくても気付かれないし、オンデマンド式の授業で視聴履歴だけを残すためなら、観なくてもただ流しっぱなしにすればいい。なんなら、視聴履歴が残らないのなら、観すらしなくても咎められない。対面よりもオンラインのほうが、何倍も手を抜きやすいのだ。

もちろん、遊んでばかりで勉強を疎かにしてる人たちもいるだろう。けれど、ほとんどの学生は真面目に勉強しているのが現実なのではないかと思う。むしろ大学生は遊んでばかりいると思うのなら、自分の周りに「大学時代に遊んでばかりいた人」しかいないのだから、大学生を批判する前に自分を見つめ直したほうがいい。

冒頭で、

「2種類の自由があるのです、とリディア小母は言った。したいことをする自由と、嫌なことから解放される自由です。」(“There is more than one kind of freedom, said Aunt Lydia, Freedom to and freedom from.”) (Atwood, The Handmaid’s Tale, 30)

という文章を引用した。「自由」と言う言葉で一括りにしてしまいがちだけれど、アトウッドが言うように”freedom to”と”freedom from”の2種類の自由があるとしたら、現状ではどちらの自由が優勢なのだろう。

オンラインになってから、「嫌なことを避けること」(“freedom from”)が簡単になった。混んだ電車には乗らなくて済むし、朝早く起きなくても済む。テストやレポートは簡単になったし、評価も優しくなった。大学の授業に労力をかけたくないのであれば、簡単に手を抜くことができる。けれど、その反面専攻している「学問を好きなだけ極めること」(“freedom to”)が格段に難しくなった。図書館は入館制限され、教授に質問しに行くこともなかなかできない。授業は前よりも簡単で、先輩方よりも専門に対する知識は少ない気がするし、授業の数が減って、取りたかった先生の授業は取れなかった。学びたいのに、全力で学べないのが悔しい。

もちろん、現状を受け入れることも大切だろう。文句ばかり言っているのは好ましくないし、公衆衛生を考えず、子供のようになりふり構わず自分本位で生きることは私は反対だ。繰り返しになるが、現状を鑑みれば、オンライン授業が一番リスクが少ないであろうし、オンライン授業が絶対悪と主張したいわけではない。大学生の中には「今までの授業よりもオンラインの方が好き」という人も多くいるだろう。けれど、オンラインでも楽しいと思ってオンラインを受け続けるのと、”To be, or not to be”と迷いながら、ただ何も変えられないと絶望して現状に甘んずるのは何か違う気がする。行動しなければ何も変わらないし、言わなければ他人には伝わらない。だからこそ、ここに今「大学生」である私が感じていることを書き記しておこう。


1. 訳は本記事の執筆者によるものである。


引用文献

Atwood, Margaret. The Handmaid’s Tale. London: Vintage, 1996. 


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さねとも のあ (Noah)
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