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九十三話 中隊長室

 原隊に配属され一月後、訓練が終ると田村班長に、中隊長室に行くよう浅井は言われた。
 中隊長室など、中隊長の当番兵以外、古兵でも入ることはない。
 そんな中一人呼ばれて行くことになろうとは・・・。
 浅井にとって青天の霹靂。
 「一体何だろう・・・」
 不安MAXになる。
 
 中隊長の個室は、将校集合所の近くにあった。
 他と同じで半地下の建物だ。
 浅井は入口に立った。姿勢を糺し、呼吸を整える。

 「浅井二等兵、只今参りました!!」
 浅井は絶叫した。
 「入れ」
 中隊長の声がした。
 扉を開けて中に入る。
 「浅井二等兵参りました!」と再度言った。

 机とベッド、その他、壁に日本刀が掛けられただけの簡素な居室。にもかかわらず、内務班と同じくらい広い。
 浅井は、胸に天保銭の章を付けた士官学校出の吉野直利中尉の前に立つ。一心不乱に直立不動の姿勢を取った。

 兵隊が直に中隊長と話すことなどまずない。しかも、最年少の浅井ごときは、まだ配属されて一ヶ月の弩新兵である。
 (一体何があったのか、何を言われるのか・・・)
 前代未聞の現象に、浅井は戸惑いを隠せない。

 吉野中隊長は机に向かっている。
 緊迫した空気が流れ、目が合う。
 「もっと前に来い」
 「はい!」
 近付くと、机に置いてある封筒が目に入った。

 (母の字だ!!)

 いつも母が使っていた鳩居きゅうきょ堂の封筒に、「一月四日に入隊した浅井宏が配属された中隊の中隊長様」と筆書きされている。
 浅井は顔から火が出る思いだった。子離れしていない母の絶望的な女々しさに、恥ずかしさで居たたまれなくなった。

 「母親というものは有難いものだな」
 赤面して汗をかく浅井を前に、吉野中尉は言った。
 「どうだ、軍隊生活に馴れたか?」
 「は、はいッ!」
 浅井は上ずった声で答えた。
 広い額の怜悧な顔をした吉野中尉が笑う。
 「お前は連隊で一番の年下だ。年長者の兵隊に負けずに頑張れ!帰ってよし」
 「ハイッ!浅井二等兵帰ります!」
 三十度頭を下げ、早々へやを出た。
 
 恥ずかしさと安堵の気持ちが入り混じる。動揺を押し殺し、あくまで冷静を装いつつ班に戻る。
 内務班に入ると、上等兵以下二十二名の射るような視線が、各々おのおの一斉に浅井に向けられた。
 繰り返すが、中隊長が当番兵以外と直接口を利くことなどない。その上、若干最年少・新兵只一匹のみを自室に呼ぶ異常事態。当然、班内で問題になっていたのだ。

 「浅井と吉野中隊長は姻戚関係にある」
 遼原に広がる火の如く、そんな噂が伝わっていた。

 以後、加平の虐めが激減する。
 このため、浅井は、縁もゆかりもない中隊長との噂をあえて否定しなかった。浅井が、同班新兵からいたく感謝されたのは、言うまでもない。


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