イヌくん
時は大東亜戦争後期——日夜戦闘が行われる中、黄河に橋を架け、広大な支那大陸を徒歩にて縦断する支那駐屯歩兵聯隊。一度は死んだ浅井宏と当時の青少年群像を実話ベースで描きます。
浅井は軍服を脱ぐ。 濡らした布切れで身体をあちこち拭く。 銭湯へ向かう前の最低限のマナー。 「あ、それから言い忘れてたけど・・・」 背中からやや言いにくそうな芳枝の声が聞こえた。 「八百屋や配送屋も空襲に遭って、食べ物がろくにないの。ここに着物があるから、どこか当たって食糧と交換してきてくれない・・・?」 「えっ、どこかって?」 「そんなもん、畠や田圃やってる農家さんとかよ。今皆そうやってるわ。その間、服の洗濯から何からやっておくから」 確か
戦死したら公報が届く。 例え生きているのが確実と思っていても、その噂だけでも先に知りたい。 ラジオでは復員船情報のほか、尋ね人のコーナーも開設していた。 何年何月どこそこで空襲に遭い、離れ離れになったという人の名前を書き、その人の消息が知りたいと放送局に投書すると、コーナーの時間に流してくれる。リスナーからの反響は大きく、戦後しばらく続いた。 芳枝は尋ね人コーナーに投稿した。 コーナーの虜となり、熱が高じて葉書職人となった。 すでに帰國している軍人の中に、
浅井の母・芳枝は、息子の帰りを待ち侘びて居た。 しかし、戦時中はその思いを外に出せない。が、戦後となると訳が違う。終戦が隠忍の念に風穴を開ける。芳枝は、感情を爆発させた。 また、隠忍への風穴は、芳枝だけではない。一億総決壊である。 先ず、ラジオが帰還情報を流すようになった。 「本日どこそこの港に復員船が着きます。何年か振りに故國の土を踏んだ帰還兵が㐂び勇んで列車に乗って居ます。各々故郷に向かっています」 原稿を読むアナウンサー。声は弾み、下手したら復員兵以
電車に乗る。 車内は案外空いていた。浅井はホッと一安心する。 この二年四ヶ月、同じ軍服を一度もまともに洗濯せず、着通していた。そのため、自分では判らぬもの、恐らく凄まじい悪臭を放っている。 時に軍服は人糞に塗れた。そして、その糞が溶解し、班で問題なった。そんないわく付きの物なのだ。 当時も自分の臭いは自分では判らなかった。それを身を以って学んでいた浅井だけに、満員電車を警戒するのは当然と言えば当然だった。 車窓から外を眺める。山手線沿いの工場も全焼していた。
列車が東京に近づくに連れ、家屋や建物が増える。と同時に、空襲による被害状況が明らかになっていく。 沿線の工場だったであろう建物――その殆どの屋根はブチ抜かれ、吹き飛ばされている。米空軍機が投下した爆弾により、何もかもが機能不全に陥っていた。 横浜駅を過ぎ、京浜工業地帯に入る。被害の状況はますます酷くなった。屋根は皆無。無数の折れた鉄骨だけが、空に向かって垂直に突き出している。 全焼した工場跡に生い繁る雑草。完膚なきまで破壊され、あるのはただ曲がった鉄骨のみ。その間
四人掛けの座席の窓側に腰を下ろす。向かいのホームを見ると、何人もの子供たちが窓際の復員兵に何か売っている。 「日本の子供達も支那の小孩と同じようになったか・・・」 商売っ気丸出しの子供たちを見て、浅井は何とも言えぬ気持ちになる。 駅の被災地図では、自宅は空襲を免れている。気が大きくなっていた浅井は、財布の紐も緩んでいた。 「何を売っている?」 子供らはチョコレートを出して来た。 浅井は貰ったばかりの二百円から拾円札十枚出すと、子供らに渡す。 子供たちは小
博多駅に向かって歩く。 背広姿の男が待ち構えたように近寄って来る。 何事かと思う浅井。 「貴方が所属されていた聯隊はどこですか?」 そう言って来たので、聯隊名と中隊名を答えると、男は自分の持っている書類を覗き込んだ。 見ると、何らかの名簿らしい。そこに浅井の名前があり、見付けるや否や新しい拾円札二十枚と軍隊の白い靴下に入った米一升をくれた。そして、その上で、浅井の名前が記載された下士官適任証を渡してくれたのである。 背広を着ているものの男は軍人らしかった
倉庫は検疫所になっていた。 白い煙がもうもうと立ち籠めている。 白煙の中、高さ一米くらいの木の台が並び、その上に噴霧器を持った占領軍の兵隊が立っている。黒人もいる。彼らは自らの前に来る日本兵の頭に、白いDDTの粉末を噴射していた。伝染病を日本國内に持ち込まぬよう消毒しているのだ。 米兵には一人につき五、六人の日本の若い女が助手として付いていた。見ると、白い粉を頭から被り道化のようになる日本兵を笑っている。浅井にはそれが妙に米兵に媚びているように見え、極めて不快に思え
乗船から二日経った。 船酔いは疾うに限界を超え、皆吐き出す物はすっかりなくなっている。 誰もが支那の阿片常習者のようにゴロ寝していると、甲板から声が聞こえた。 「日本が見えて来たぞぉー!!」 「ウオォーーーーー!!!」 我先にと鉄梯子を上る。 遅れを取ってなるものか――後を追う浅井。 甲板に出る。右を見ると、まるで能舞台を見るかのような、濃い緑の松と赤茶けた土の小さな島が見えた。 島の港付近を航行する輸送船。港には水雷艇のような小型船が、錆びた船底を上に
船底に落ち着くと、兵隊の間で反証のしようがない流言が広まった。 その噂によると、船は日本に向かわず、ブラジルに行くと言う。また、戦争の賠償金を払う代わりに、兵隊は睾丸を切り取られ、ブラジルで強制労働をさせられるというのだ。 「何っ!?」 「まさか・・・」 思わず上がる声を聞く。 反証がないとはいえ、日本は無条件降伏している。従って、何をやらされても不思議ではない。大きな話で言えば、当然賠償金は払うことになるだろう。第一次世界大戦で負けたドイツは、莫大に賠償金を支払
小屋に戻って軍服を着る。前釦が填らない。腕首も袖口から十竰は出ている。 浅井はここに来て成長していた。毎日飯を存分に食っていたから、遅れていた成長期が一挙に促進されたのだ。 戦後八ヶ月で別人のように大きくなって浅井を見て、日々浅井を見ていた古兵ですら驚いていた。 無錫駅前――久々に隊員全員が揃う。浅井はその数の少なさに改めて仰天させられる。 同年兵十九名は浅井以外が全員戦死または戦病死。あるいは行方不明でその場におらず、居るのは浅井一匹のみ。ボッチになった我が身を
あれから八ヶ月――馬に吹き飛ばされた浅井は、無事相棒となった。 一応馬に認知されたのだ。浅井は馬が栗毛であることより、栗林と名付ける。 「栗林よ、貴君は支那で百戦百勝の浅井のらくろ一等兵に見つかった。いずれ天下一武道会に出る素質があるぞ」 そう話し掛けると「フンッ、それはわかってる」と不遜な態度をみせる。浅井は、あくまで格下扱いしてくる栗林に腹が立ったが、それでも共に、日々夕食の時間がくるまで、方々へ出掛けた。 古兵たちはその間麻雀をしていた。上海にあった旧日
筆頭の田村班長は、運河の向かった。そして、広々と広がる畠の畦道に入るとちょっとスピードを上げた。 浅井は馬に振り落とされないよう指を鬣に絡ませる。落馬しないよう懸命に注意を払う。すると突然馬が列を抜け出し、疾走した。 馬上、吃驚仰天する浅井。さらに指を必死に鬣に絡ませる。怒った馬は前脚を突っ張らせ、ポルシェのエンブレムみたいになり、一瞬ウイリーして急停止した。 もんどり打って十米先の畦道まで放り飛ばされる浅井。 「お前如きがワシの鬣に触るな」 馬が明らかそう謂って
國府軍の方からなかなか仕事が来なかった。仕事がありすぎるのは困るが、無いのも困る。ましてやタダ飯を食わしてもらっている身分。申し訳ないと思った田村班長が、引き獲られた軍馬を運動させると申し出た。 その仕事のようで仕事じゃないような申し出に、昨日の敵がどうでるか注目されたが、あっさり許可される。 秘かに浅井はあせって居た。都内出身の浅井、実はこれまで馬に一度も乗ったことがない。その上、今回鞍なし、轡なし。あるのは綱だけというハードコアぶり。前途多難は火を見るより明らかであ
聯隊は出発した。國府軍による武装解除を受けるために。 無理を強いた自責の念があるのか、報復を恐れたのか――将校達は兵隊に姿を見せることを嫌っていた。そのため、意を汲んだ先任下士官達が、中隊の指揮をとる。 先の号泣といい、将校達は浅井にとって意外な面を見せ続けた。 一方、兵隊達は余裕綽々。小銃を持っていても敵の攻撃を受ける心配はないし、食糧も補給される。永修、徳安を経て、廬山東南にある景勝地・鄱陽湖を通る時など、観光気分に浸っていた。これまでどんな風光明媚な名勝を
午前十一時頃――日本ではちょうど正午らしい。 無線機が音を発した。 短波電波独特の音――波のうねりのような雑音が、高くなったかと思うと、潮騒が退くように消え入ってしまう。 通常、五号無線機に送られるのは作戦指導で全て暗号だった。 しかし、大幅に減ったとはいえ、ほぼ全隊員集まっている。 全員で暗号を聞くのか――謎は深まるばかりだ。 針一つ落ちても聞こえるほど静まり返り、皆無心で聞いている。 浅井は耳を欹てた。波のように上下する雑音の中、肉声を探しす。 聴き