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ハックルベリーが会いに来る(小説をめぐる冒険)

小学6年のとき、朝の読書の時間が終わって『トム・ソーヤーの冒険』を片づけていると、女子に話しかけられた。

「子供っぽいやつ読んどるんじゃね」

おせっかい焼きの島田さんだった。「それ終わったら、これも読んでみんさい」と本を渡された。

「ハックルベリー・フィンの冒険……?」

私がたどたどしく書名を読みあげると、「『トム・ソーヤー』の続編なんよ」と島田さん。「こっちは大人向けじゃけえ」

5年生のとき、島田さんと同じ図書係で『星の王子さま』をすすめられたことがあった。私が小説を読むきっかけになった本だった。

「わかった。読んでみる」

私は素直に上下巻の本を受けとった。「大人向け」というふれこみにかれたのだ。

ところが、『トム・ソーヤー』のあとに読んでみると、『ハックルベリー』はトムの仲間のハックが主人公の少年の冒険物語だった。
『トム・ソーヤー』と違うのは、ハックが読者に直接語りかけてくるような文章。かえって読みやすいくらいだった。

「おもろかったわ。長いけえ、子供には読めんじゃろうね」

私が苦しまぎれの感想をそえて本を返すと、島田さんはぽかんとしていた。
これが私のハックルベリーとの出会いだった。

中学に入って部活がいそがしくなると、小説を読まなくなった。

高校のころブルーハーツにハマったが、『1000のバイオリン』という曲のなかで懐かしい名前を耳にした。「ハックルベリーに会いに行く」という歌詞があり、図書室の本のにおいを思い出した。 

ハックルベリーと再会したのは大学生のときだった。アメリカ文学の授業で『ハックルベリー・フィンの冒険』が取り上げられたのだ。

それまで『ハックルベリー』を子供の読み物だと思っていたが、授業によれば、「現代アメリカ文学の源泉」として文学史上で高く評価されているそうだ。

たとえば、ヘミングウェイは『アフリカの緑の丘』のなかで、「あらゆる現代アメリカ文学は『ハックルベリー・フィンの冒険』というマーク・トウェインの1冊の本に由来する」と述べている。

『ハックルベリー』の特色は、当時の南部地方の生活を方言や俗語を多用した文体で写し取ったという点、また黒人奴隷どれい制度を扱った現実社会への意識などである。
ヘミングウェイのほか、フォークナーやサリンジャー、ヴォネガットらに影響をあたえている。

私のデビュー作も『ライ麦畑でつかまえて』とならんで、『ハックルベリー』から大いに影響を受けており、じっさい作中にも書名が登場する。

『ハックルベリー』を読み返してみると、自由な少年の冒険物語とは異なるシリアスな表情が浮かび上がってきた。

ハックは飲んだくれの父親のもとを脱出し、逃亡奴隷のジムを連れてミシシッピ川をいかだで下っていく。
当時、奴隷の逃亡を手助けすることは重罪であり、浮浪児とはいえ南部人のハックは深く心を悩ませる。


ジムがもう少しで自由になるってことが、はっきり分かってきはじめると――それはだれのせいだ? おらにきまってるじゃねえか。おらはそれで気がとがめて、どうにもこうにもならなかった。心配で休むこともできず、一か所にじっとしていることもできなかった。それまでは、おらのしていることがどんなことか、自分ではまるで分かっていなかった。それが今やっと分かってくると、胸の中でしこりになって、じりじりとおらを苦しめはじめた。

授業のレポートではラーセンの『パッシング』を取りあげた。

パッシングとは、見た目は白人として通用する混血の黒人が、人種差別から逃れるため白人のふりをして生きることをいう。
というのも、当時のアメリカでは「一滴の血の法則」というものが存在し、一滴でも黒人の血が混じっていると黒人と見なされたのだ。

黒人として生きるアイリーンと、白人として生きるクレア。対照的な生き方を選んだ2人の混血の黒人女性を主人公とする『パッシング』は、人種問題の複雑な様相を描いている。

『ハックルベリー』に話をもどそう。

ふと、ハックルベリーのことを書こうと思ったのは、犬の散歩をしていて中古釣具チェーンの「タックルベリー」を見かけたからである。
看板にはハックとおぼしき少年が釣竿つりざおを握ったすがたが描かれている。

100年以上の時を超えて、異国の街で見かけるハックの面影。
『ハックルベリー・フィンの冒険』は子供から大人まで楽しめる広い間口をもちつつ、同時に文学者の議論の対象となる深い文学性もそなえている。

私の人生のときどきに姿を現すハック。トウェインには遠く及ばなくても、『ハックルベリー』のような広くて深い作品を書ければと思う。

*西田実訳『ハックルベリー・フィンの冒険』(岩波文庫)および諏訪部浩一編『アメリカ文学入門』を参照・引用した。

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