節分は炒り豆でないといけないのか。
遂に終わってしまいましたね。節分。
今年の一大イベントが、早々に終わってしまいましたね。もう2023年終ったみたいなもんですよ、終わり終わり。もう残りの2023年なんて、消化試合みたいなもんですよね。
まぁ今や有名イベントである節分なんですけど、これってよくよく考えると、まぁまぁ奇祭じゃないですか。外の鬼に向かって豆投げたかと思ったら、家じゅうに豆をばらまいて、挙句明後日の方向を向きながら黙って巻き寿司食うんすよ?正常な判断での行動とは思えないでしょ。
丸いチーズを追いかけて坂道を下る祭りとか、トマトを投げ合う祭りとか、世界の奇祭って色々ありますけど、鬼に豆ぶつけて、部屋にも豆ぶちまけて、最後に黙って寿司食うなんてまぁまぁハイレベル奇祭ですからね。
そんな事を思いながら、一応僕も今年もいつも通り節分をやりましたよ。外に向かって「鬼は外」なんて言いながら豆を投げて、「福は内」と言いながら部屋の中に豆をぶちまけました。途中豆を踏んづけたりしながら、今年の厄を払う為に、必死に豆を撒きました。
そんで一通り豆を撒き終わって思うんすよ。
何故、炒り豆なのか。と。
炒り豆って、絶妙に鬱陶しいじゃないですか。踏んづけたらバラバラになるし、皮も散らばって飛び散るし、ギリギリ鬱陶しいでしょ。部屋の中に撒くにしては、部屋が汚れるんですよね。どうせ撒くなら、小豆とか大豆とか撒いた方が、絶対掃除しやすいじゃないですか。
しかも何で炒り豆なのか、意味もよく分からんでしょ。本当に厄除けが必要なんだったら、塩の方が良い感じするじゃないですか。部屋に撒くのは嫌ですけど、意味としては塩の方がわかりますもんね。
どうしても豆が必要なら小豆とか大豆を撒いた方が部屋も汚れないし、厄除けなら豆やなくて、塩っぽい。やっぱりどう考えても、炒り豆ではないんですよ。鬼を退治するという名目で、部屋を無駄に汚すだけなんですよね。
ほら別に、豆にそういう意味があるやん。
小豆でええやないか。
拾い忘れた豆から目が出る事が…縁起が悪い…?
………
もう遺伝子組み換えて芽が出なくなった豆でも使って、
「種を絶やす」みたいな語呂合わせにしようぜ。
言い訳の効かない炒り豆の理由に、苦虫をかみつぶした顔をしながら、バラバラになった炒り豆を掃除を、苦虫をかみつぶした顔をして行い、黙って巻き寿司を食いながら、苦虫をかみつぶした顔をする節分になるのでございました。
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