随筆(2021/8/11):なぜか恋愛工学の広告が流れて来たので、陰鬱な気持ちになってきたというお気持ち表明(1)
0.何で恋愛工学の広告をレコメンドされているのか?
どこかで恋愛工学のリンクでもクリックしたのか!? 記憶にございませぬが!?
(なおヘッダ画像は恋愛工学の広告ではない。もっとおぞましい何かだ)
(というか尾籠憲一異色漫画短篇集、ホラー漫画『オレオレ詐欺』の詐欺師さんです)
(本当におぞましいやつじゃん!?)
1.広告を見る限り、恋愛の話をしているはずが、何か自尊心の死守や蹂躙の話をしているように見える
自尊心を死守したり蹂躙したりして体験する恋愛、どちらも心底無責任の極みに見える。
それは、他人を利用して自分が辛くないように気持ち良くなることであって、他人が辛くないように気持ち良くなることは二の次三の次としか思ってないだろう。
無責任だよ。そりゃあ。
そうしたプロセスの含まれた作品は、その後の展開如何に関わらず、もう読めねえ。
***
恋愛によって、自尊心が影響を受けるのは、そりゃあまあ、分かるよ。
でも、恋愛の骨子は、自尊心ではないだろう。
2.相手が大事に見えるか&実際に、相手のために、相手のいいようにしてあげているか
「自分と同じくらい相手が大事」という気持ちが、世間的に言う恋愛と、それに似ているがそうではないものを、まずは分かつのではないだろうか。
自尊心はそこではほとんど表立って出て来ることはない。主か従かで言えば、従たるものとしてしか出て来る余地はない。
もし、そういうのが表に出て来ているとしたら、それは恋愛でなく、別の人間関係を、平たく言えばマウンティングを、下手な形で導入しているだけではないのか?
だとしたら、それは恋愛ではない。
少なくとも、恋愛らしい恋愛のイメージからはかなりかけ離れる。
***
あと、相手が大事に見えていると、しばしば、「なんかしてやりたい」気持ちと、その具体的な方策としての「今どうしたらいいのか、それとも今相手はデリケートな状態であって、そっとしておくべきフェーズなのか?」とかの気遣いが、自然な形で伴ってきます。
来ないこともあります(重要)。こうなると、思われる側は、その「大事さ」とやらに、疑義を持つようになります。
そりゃそうだ。「大事に思っている」が、「大事にしていない」やつ、言行不一致。不誠実。
***
(近親間でない限りは)基本的には赤の他人を「大事に思っていて」「大事にすること」が、世間的には恋愛の骨子に近いのではないでしょうか。
そこでは自分の自尊心など吹っ飛んでるものだし、最低限相手を大事にして潰さないようには気をつけたくなってるものでしょう。
***
「あなたのことを思うと特大感情になり、あなたのためになんかしたいし、あなたのいいようにしてあげたいのだ」
これをマジで言う人、まあビビるが、心意気としてはメチャクチャ嬉しいじゃないですか(受け取る自分の側が荒んでいなければ)(荒んでいることはしばしばあるが)
「えっ! 自分にこんなことしてくれるのかよ! ナンデ? え!? 心意気で!? マジかよ! ウヒョー!」
これはとんでもない嬉しさですよ。俺を大事に思ってくれる人がいる! こんなに嬉しいことはない! そういう気持ちはマジで何物にも替え難い。
相手の真心って、こちらから向こうに「真心で接して」と言って、得られるもんじゃないからな。これは相手の心意気だから、相手の仕切りなんだ。自分にはどうにもならない。
それが、自分に、向いている! 奇遇だ!
***
俺もやったことがあります。
しかも俺は「おう、大変やんけ。じゃあ、これ、助けになるか? どうだ?」という侠気でやったのです(無茶苦茶だ)。
相手は、さぞビビっただろうなあ。
相手としては、今が正念場であるはずだ。
役に立っていれば良いのだが…
がんばれ。負けんなよ。
3.好意が思いやり等に結びついていないなら、相手の喜怒哀楽の内面について真剣に捉える気がないということで、つまりは「ナメてる」ってことだ
相手の良さにドハマリしていない、のっぴきならなくはない、究極的にはどうでもいいと思っている人の考える、特大感情と称する何かとは、突き詰めれば、脳と下半身のかゆみではないのか。
脳と下半身のかゆみの解消というニーズはまああるだろうし、分かりもする。
が、これに付き合わされる相手にとっては、「大事にされる」という嬉しさはない訳だ。
***
んで、そういう特大感情が、思いやりや気遣いや侠気と結びついていない人から、脳と下半身のかゆみの解消をお願いされる?
余程積まれて、それでもやるかどうか、ビミョーじゃねえ?
***
というか、「他人への好意」が「他人に何かしら受け入れられる形で良く働きかける」というところに結びついていない人の好意って、要するに「ナメてる」ってことじゃねえ?
相手の喜怒哀楽のある内面について考えを及ばせてすらいない。
「相手がどう考えているか、自分も真剣に考える」という発想自体がない。
あるいは、動物の本能に毛が生えたもの程度にしか考えていない。「畜生の習性でおわすなあ」という。そりゃあ、いい加減な解像度にしかならない。
これを「ナメてる」「ナメてない」で分けて考えたら、ぶっちぎりで「ナメてる」側の振る舞いだろう。
相手の喜怒哀楽の内面について、考えを及ぼすことは、相手や周囲から「ナメてる」「ナメてない」を判断される指標としては、決定的に重要だ。
***
内面について考えを及ばせなければならない相手、一人や二人、いるのではないでしょうか。
そういう相手をナメていることはあまりない。というか、真剣になって考えている。
そうでない相手には、そんな態度取ってないことが、しばしばある。
じゃあ、ナメてるんだよな。
***
「モノ扱い」と言うと理解できない人はたくさんいるが、そういう人はしばしば「ナメてる」と言うと理解できることがある。
そういう人には、
「ある人が「モノ扱い」と言ってるのは、「ナメてる」と言うのと、ほぼ同じ意味だと思って下さい」
としか言えない。
で、それでも分からないと仰る人には、どう説明すればいいんだろうか。俺には分からん。語彙力がない。感覚がつかめていない…
(なんか続く)(続くの久々だな)