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随筆(2020/7/20):「他人が自分と違う」という知見は、予断や挫折を経て初めて体感するものであり、直ちに呑み込めて当然と思わない方がいいですよ
哲学の中でも、フッサールや、特にメルロ=ポンティみたいな現象学の人たちが言うのが、
「そもそも、自己と他者や、主観と対象の境界自体が、最初はない。
そこには、対象と未分化な主観、いわゆる間主観的な感覚だけが広がっている。
(「間主観的」には「主観と主観の間の」という意味もあるが、現象学ではまずは「自己と他者や、主観と対象の境界自体が、最初はない」という意味で使っているはずである)
自己や他者というものは、未分化な感覚から、そのうち生えてくる生け垣だ。
それらが揃った上で、やっと自己や他者がやっていく関係や、客観というものが成り立つ。
精神的に、自他の境界がないのがLv.1で、自分と他者がいるのがLv.2、その上で人間関係をやるのがLv.3だ」
ということだ。(本当はもっと細かいけど)
他人が自分と違うことそのものの理解は、もちろん現実にどうであるかとは別に、「後で」生えてくるものだ。
***
それとは別の話で、ニーズには、自分の中で完結するものと、しないものがある。
そして、現実には、他人は自分じゃないから、自分の他人に対するニーズは、常に通ったり通らなかったりする。
それはそれとして、自分の思いどおりにならないと、まずはモヤッとするし、何ならイラッとかムカッとかするものだ。
この感覚は、「ある」ものだ。一概に否定してよいものではない。
というか、そこのモヤモヤイライラムカムカこそが、
「他人が自分と違うことそのものの理解」
の、重要なきっかけの一つなのだ。そう考えると、およそ軽んじてよいものではない。
「他人が自分と違うことそのものの理解」
については、もちろん根本的には
「他人の手足が自分の手足として思うように動かせない」
という身体的なレベルの話があるが、
「他人の知情意が自分の知情意のままに動いてくれない」
という精神的なレベルの話もある。
これはおそらくは第一次反抗期あたりから醸成されてくるものだ。
何かというと、それらのモヤモヤイライラムカムカは、自他の区別が丁寧に峻別できる「前に」、それを「可能にするための」契機としてある訳だ。
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で、そこで、モヤモヤイライラムカムカしている人に、
「現実には他人の知情意と自分の知情意は違うのであり、それらの感情が先に来るのはおかしい」
と糾弾する人、かなりいる。
ダメですよ。こんなん。
これ、単に、モヤモヤイライラムカムカしている人を見ると、モヤモヤイライラムカムカするから、そういうことをやっている場合もしばしばある。というかほぼそうだ。
だとしたら、
「じゃあ他人の違和感が現にあるのを、まずはちゃんと認めろよな。他人の違和感を、自分が都合よくなかったことにするんじゃねえ、って話だ」
と言い返されても、何もしょうがない。
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「現実にはどうだ」という話と、「それを心底理解する」という話は、直結するとは限らない。というか、ふつうは直結しない。
現実を直ちには呑み込めないので、いくつかのクッションを挟んで間接的に理解していくことはよくある。
それはふつう間に
「「おそらくこうであろう」という、認知バイアス入りの予想」
と、
「それがひっくり返されることに基づく、「は? 何で思い通りになんねえんだクソ」という、失敗のフィードバック学習に伴う否定的な感情」
が絡む。
で、「他人が自分と違う」という知見は、この手の「直ちには呑み込めないからクッションが必要なやつ」では、かなりでかいやつだろう。
現実を直ちに呑み込める、直結出来るときにしか有効でない理屈で、特に自己と他者の境界みたいな、吞み込むのに時間がかかる事柄を、どうこうしない方がいいですよ。
***
もちろん、かなり多くの人は、社交や処世をやっていく上で、自他の違いということを嫌でも思い知らされて、ここまでやって来ているのだ。
で、そこら辺が分かってない子供に対しては、
「直ちに理解させることが原理的に出来ない」
という諦めも込めて、
「まあ、いつか、分かる日が来るかも知れないね」
としか言えない訳だ。
まして、
「説明して相手が直ちに理解して当然」
などと思い上がっちゃいない。
「説明して相手が直ちに理解して当然」
的なことを言うやつが、
「間接的な学習そのものはせずにここまできたし、間接的な学習の何たるかを弁えている人と会話が成り立たないし、何ならバカにしてくる、ある種の失礼なバカタレ」
であることも、当然理解している。
***
逆に言えば、これらを軽視する人、間接的な学習をいっぱいしてきているかなり多くの人たちから、
「まっすぐな道でさみしい(思考回路が)」
という軽視をそりゃあ受ける。
かなり解像度を落とした言い方をすると、
「バカがカシコのツラでバカにしてくるのを見ると、倍ほどバカにしか見えなくなる」
じゃないですか。そういうことです。気を付けた方がいい。
具体的には、「予断を抱いたり」「予断を裏切られたりする」類いの、生臭い&血腥い間接的な学習を、それなりには、やんなきゃならん、ということだ。
これは、大事な人生の社交や処世の芸の肥やしだ。
やっていきましょう。
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