
貴方の作品は「自分が愛されるため」の道具ではない
自分の作品に愛着があって、自信があって、まるで自分自身の「一部」のように思う。「これだけ力を注いだ作品なのだから」と気持ちは肥大して、心にあいた穴をきっと埋めてくれる、そう思うようにまでなる。たくさんの人から賞賛をされたくて、認められたくて、そのために何時間もかけて作品をつくる。寝る間も惜しんで、食事もとらないで。生活するための費用で道具を買って、材料を買って。そうやって自分の作品にリソースを割く。たくさんの人から賞賛されたいから。認められたいから。
褒められたい、認められたい、愛されたい。なのに自分は「たったこれだけ」と思ってしまう。そういう心のあり方が災いを招くことを、私はよく知っている。
昨年末に発行した『同人活動のお悩み、心理学で考えてみましょう。』は、創作活動を通して陥りやすい「嫉妬」や「承認」の罠について描いた漫画である。ありがたいことに多くの人に読んでもらうことができているが、手に取ってもらうことや感想の言葉を頂く度に、悩んでる人はこんなにいるのかと、多くの人が抱える孤独を垣間見て、複雑な心持ちになる。
上記発行物だけでなくnoteの記事にも書いていることだが、嫉妬してしまうことや感想を欲してしまう心理の底には、劣等感や自己否定感がある。本質的に改善するにはそういった深層部に根気強くアクセスをして、その都度適切にケアをしていかなければならない。まずはそのことを自覚し受け入れる必要があるが、「私は別に劣等感なんて感じていない」と強がったり、「そんなことをしても意味がない」とか「そんなことをする時間はない」なんて言っているうちは、変わることはできない。放っておいても劣等感は消えないし、自己肯定感は上がらない。時々その役目を友人や恋人に押し付ける人がいるけれど、そういった存在に依存するだけでは深層部分は癒せない。自分の問題は自分にしか解決できないのだ。
作品を見てもらえないとか、高い評価が欲しいとか。人気者と比較して落ち込んだり、誰からも必要とされていないように思えて、孤独を感じたり。そういう人は黄色信号。「自分の価値」を「自分の作品」に委ねすぎているかもしれない。実はこれ、友人や恋人に依存している人と本質は同じ。自分の劣等感の解消や自己肯定感の向上を「誰か」に押し付けてるか、「作品」に押し付けてるかの違いしかない。
そのままでも貴方は十分に価値がある。けど、きっとそう思えないのかもしれない。「頑張らなくてはいけない」とか「努力しなければいけない」という言葉を受けて育った人なのかもしれない。それで、自分の「好き」とか「得意」なものをつくって、その作品を認めてもらったり、褒めてもらったりすることで、心の穴を満たそうとしているのかもしれない。でもそうではないのです。貴方の作品は「自分が愛されるため」の道具ではありません。そして、貴方が「傷つくため」の道具でもないのです。
「褒められたい」「認められたい」という思いが強くなれば、それだけ褒められるかもしれないし、認められるかもしれない。でもそれと同じかそれ以上に、褒められない、認めてもらえない、という経験を繰り返してしまう。貴方は「愛されるため」に作品をつくっているのかもしれない。けれど実際は「傷つくため」に創作を続けてしまっている。
可能であれば、視点を変えてほしい。「自分が愛されるため」ではなく「誰かの愛のため」に、貴方の作品は存在しているのかもしれない、と。
愛には様々な形がある。愛しいとか恋しいだけではなく、痛みや苦しみからの解放とか、励ましや勇気付けだって愛情である。溜め込んだ怒りの発散や、抑圧した悲しみの表出を手伝うことも、愛の一助だ。「私もこんな作品をつくりたい」とか「自分ならもっと上手くできる」といった衝動を与えることだって、愛の循環だと私は思う。誰かの心に触れること、誰かの感情に影響を与えること。貴方の作品はそんな風に「誰かの愛のため」に存在している。そしてその「誰か」の中には「自分」も含まれている。ものをつくるということや、表現するという行為を通して、貴方は貴方の愛を循環させている。それは「愛」と「創造」が、根源的に繋がっているからだ。
絵を描くことも、文章を書くことも、まずはじめに「愛」があった。大きな声で歌を歌うことや、腕を伸ばしてダンスを踊ることだって、きっかけは純粋な衝動。靴を揃えること、机の中を整理することも、美意識のはじまり。お子様ランチにワクワクしたり、四季折々の花壇に心を奪われることも、愛の土壌に創造の種が植えられた瞬間。
もし貴方がそれらを「懐かしいもの」「今は失われたもの」と感じるのであれば、それはきっと忘れているだけ。耕せばまた、愛も創造も豊かさを取り戻す。(もし仮に「与えられなかったもの」と感じるのなら、それは「汚染されてしまったもの」かもしれない。きちんとケアすれば、愛や創造は取り戻せる。)
愛はもうすでに自分の内側にあるのに、そのことを忘れ、外側からの愛ばかりに囚われて「たったこれだけ」と思ってしまっている。そういう心のあり方が災いを招くことを、私はよく知っている。
二月四日 戸部井