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【ネタバレ有】傲慢と善良と愛の課題


 辻村深月著『傲慢と善良』を読んだ。これはネタバレを含む記事なのでご注意ください。




↓↓↓これより先はネタバレを含みます。↓↓↓









 この作品の魅力は、”いやがおうにも”自分自身の過去の体験を見つめざるを得なくなること、にあると思う。多彩な恋愛経験を持つ人も、そうでない人も。婚活の有無、若気の至り、失敗や恥。いつか誰かを傷つけたこと、傷つけられたこと。そういった自分史から少しでも「劣等感」を抱く人は、この作品から目を背けたくなってしまうだろう。恥ずかしくて不恰好で情けなくなるような、今まで誤魔化してきた過去の自分。『傲慢と善良』はミステリーの要素を持った恋愛小説であるが、ここに最大の「仕掛け」がある。

 自分自身の恋愛経験を反芻してしまう、という構造がこの作品の凄いところで、気づけば冷ややかな気持ちでこの作品を読み進めてしまっている。なんと恥ずかしいのだろうか、と。みっともなくて、愚かで、馬鹿らしい。そんなことを思ってしまっている。物語上の人物に対して抱いていた嘲笑や嫌悪、苦虫を潰したような思い。それらは全部過去の自分の恥を照射しただけに過ぎなく、気づけば「傍観者」ではなく「当事者」として物語の中に「私」を見出してしまう。想起される恥は罪悪感としてこみ上げる。後悔や憂いで「せめて物語の中の二人は救われてほしい」そんな風に読み込んでいけば、ストーリーの終盤でこの言葉に出会う。


「あんだら、大恋愛なんだな」
「渦中さいる本人だぢは大変なんだろうげっと、わたしがら見っと素晴らしいとしか思わね。大恋愛な」

『傲慢と善良』(辻村深月著/朝日文庫 p.467より)


 これは物語の主人公である真実と架、そして、全ての読者に向けた言葉だと私は感じる。この作品を自分自身の経験と重ね合わせ、ストーリーやキャラクターに否定的な思いを抱くほど、あからさまなミスリードをしてしまう。架や真実に「自分の恥」を見出した人ほど、騙されてしまう。

 それは、二人の恋愛は素晴らしいものである、ということ。そして、私たちも彼らに負けないぐらい、素晴らしい恋愛をたくさんしてきた、ということ。


 私はこの夏、数年ぶりに恋をした。そしてその時、恋した人とは別の男性から、恋心を抱かれていた。その時に気づいたことがある。「誰かを愛する」ということや「誰かに愛される」ということを難しくしているのは、それだけ「自分を愛していない」「自分を受け入れていない」ということに直結するのだと。
 恋が遊びではなく真剣であるほど、自分の過去と向き合わなくてはならなくなる。変えられない過去を受け入れることができなければ、隠したり、嘘をついて誤魔化すしかなくなってしまう。
 架が真実との結婚を遅らせていたのは、きっとここにある。架の真実に対する思いが、70パーセントという評価になってしまった理由がここにある。真実は自分の過去を恥じ、架に見せないよういい子を演じ続けた。それが二人をよそよそしくさえ、いつまでも緊張状態を与え続けていたのだと思う。随分と手荒な形になってしまったが、それを打破するために真実がついた嘘と、それを暴いた美奈子たちの態度は「過去から目をそむけないで」「もういい子じゃなくていいんだよ」という、必然たる導きだったのだと思う。

 架を追いかけていた真実が、架に追いかけられる真実、という色合いに変化したことで、物語はひっくり返る。真実の「嫌われたくない」が「嫌われてもいい」に変化したことで、隠していた30パーセントが解禁される。
 恋愛や結婚は「私」だけでも「あなた」だけでも成立しない。「私とあなた」そして「私たち」でなくてはならない。自分の痛みや傷を自分の中だけで留めてはいけないのだ。それはこの先「私とあなたの痛み」「私たちの傷」へと変容していくのだから。


 随分と大がかりな「カップルの痴話喧嘩」だったな、と思う。そのことに最後の最後で気づいて微笑ましい気持ちとなる。事件の中心人物にとっては「深刻で」「複雑で」「人生の転機」ともなり得ることを、爆心地から離れた傍観者は時に冷たく、時に慈しみ深く見つめる。実に面白い作品だった。

 これを読んだ人たちの中で、その人の内側にしかないラブストーリーが思い起こされているだろうことは、とても心地よい。それらはきっとどれも大恋愛で、素晴らしいものだったのだろうと、そう強く思える。


十一月十六日 戸部井


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