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愛の課題と愛着障害

 先日こっそり投稿した記事の、続きの話。

 

 「誰かを愛してみよう」と奮い立って、勇気を出してメンタルブロックと向き合って行動をしているけれど、そもそも対象となる人が「誰かに愛される」ということへの許可を出していない、というすれ違い、もしくは他者の課題に直面している。失恋とも違う、はじまってもいないし、きっと彼は自分の思いとか感情を、私に届けようとさえしない。声をかけようとしたら隠れちゃうし、連絡をしても返事はない。多くの場合ここで「嫌われてるんだ」「避けられてる」と傷つくのが自然かと思うけど、私の場合、それさえも見越してこの人のことを好きになったんだなぁなんて、達観している。
 不思議と寂しさとかやるせなさとかはほとんどなくて、傷なんて一切ついていなくて、それは自分ができる最大限のことを、きちんと達成しているからだと思う。恥や傷を恐れず行動するとか、過去の体験を振り返って克服するとか。私は自分の弱さとか、自分の課題と真っ向から向き合って乗り越えたけど、彼はそうではなかった。少なからず彼は“乗り越えるのは今ではなかった”というだけのこと。ゆえに「誰かを愛する」前に「誰かに愛される」ことを自分に許可しなくてはならないのだと、今ようやく気づいている。
 そういえば私自身、身近な男性にアプローチをされるのが苦手で、好きとか可愛いとか知りたいとか、そういった好意のまなざしに怯えていた。自分自身が抱えている闇や虚栄や痛ましい過去に、光を当てなくてはならない気がして。開示する必要性とか、受け入れてもらうにはまず自分が受け入れなくてはならない、だとか。きっと私が愛そうとした彼も、そういった恐れから逃げ惑うしかなくて、今も苦しんでいるのだと思う。でもこれは私が与えた苦しみではなく、彼自身の中に元々あった苦しみに私が光を当ててしまったというだけで、遅かれ早かれ向き合わなくてはいけないことだよね。と、思ったりもしている。

 愛の課題に着手して思うのは、やはり、養育者との関係やインナーチャイルドについて改めて向き合う必要性があるのだ、ということ。意中の相手やパートナーと適切な関係を育むには、生まれる前からはじまっている愛の問題と適切に向き合って、解決する必要がある。
 好きな人を思い、被害妄想のような状態に陥ることがあった。無関係な女性との繋がりを怪しんだり、こちらの気持ちを見透かして弄ばれているような気もした。そういった根拠のない不安に駆られ、相手に対して衝動的になってしまう想像までして、この悲観的な心理状態が“上手くいくはずの未来を壊してしまう”という構造にも気がついた。このように合理的に解釈することは難しくはなかったけど、パラノイア的傾向は進行するばかりで、原因を突き止めなくてはならないと内省し、何度も向き合ったはずの「愛着障害」と、もう一度再会することとなったのだ。

 愛してほしい人(大好きな親)は、私のことを愛してくれなかった。大切にしてくれなかった。嘘をついて裏切って、私に背を向けて冷淡にあしらった。そんな心の傷が今も残っているから、35年経っても一人の人間を信頼し愛することができない。だって私の大好きな人は、私を愛してくれないのだから。

 これが、インナーチャイルドからのメッセージ。


 誰かを愛することに前向きになったり、誰かに愛されることを受け入れられるようになって、愛の課題に向き合うと決意し、自分自身をさらに成長させようと勇気を出したら、辿り着いた先に、愛されなかった幼少期の私と、愛してくれなかった両親がいた。
 恋愛とか結婚とか、誰もが普通のようにクリアしているものと考えていたけど、実はそうではないのかもしれない。分離しているとは思っていなかったけど、まさか同一の課題だったなんて。愛着障害と愛の課題。きっと同時に癒すことができて、同時に解決することができる。親を乗り越えよう。もうこの痛みを、終わらせよう。
 私の中で、ビッグバンのような変化が起きているのに、外側から見たら誰も気づいてないのが面白い。誰かに愛されることへの許可と、誰かを愛そうとする勇気が、心の真ん中に大きなスペースとして誕生している。今はまだこの2つが別々の部屋として存在しているけど、近い将来、ひとつのものとして統合されるのもわかっていて、ワクワクしている。もう何も怖くない。あるがままの私を見せることも、あるがままの誰かを見ることも、何も怖くない。早くその体験をしてみたい。いつでもこのスペースに飛び込んでほしい。私は、誰かを愛してみたい。

 ずっと気にかけていたけれど手に取ることのなかった本を買って読んだ。今の私に必要な一冊だった。エーリッヒ・フロムの『愛するということ』。
 なんか「人生の最終課題かも」と思っている。これを乗り越えたら、安らかなる日々が待っていると思えている。

九月十六日 戸部井寧