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【エッセイ】とめどない思考、3000の壁。

「3000文字書けない話題は、私の有象無象。」

改めてnoteを始めてからというもの、私はこの思考に支配されている。
実際、私が投稿したエッセイやショートショートは、下書きの段階で3000字を超えるまで書いている。この段階で手が止まったら投稿しない。
ただし、後の修正で大幅に削るか付け加えをすることもあるので、ここであなたが読む文章が必ずしも原型をとどめているとは限らない。
また、つぶやきなどの機能は一切使わず、テキスト投稿しかしない。
そんな”縛り”の上に私が居る。

これが私の更新頻度を少なくさせている原因で「書けない」にもつながっている。
以前は1500字程度のエッセイを、週に3回ほど投稿していた。
というよりできていた。
では、なぜ今になって3000という文字数の壁にぶち当たっているのか。

それは、私の「書く」への価値観が、数か月の間に大きく変わってしまったからである。


「質より量をこなせ。とにかく量をこなせば、質は後からついてくる。」
おそらく多くの人がこの言葉を耳にした、または目にしたことがあるだろう。
SNSにいる”成功したビジネスマン”のアカウントを覗けば、たいていこんな投稿をしている。
この言葉は間違っていない。
ただ圧倒的にコトバタラズで、説明不足であると私は思う。

では何が足りていないのかというと”経験値”という言葉だ。
量をこなしても、そこから学びを得ることなく、ただがむしゃらに取り組むだけなのならば、効果があるとは言えない。
「数学の問題集、3周しといてね」という教師のセリフを真に受けるのと同じ。
1週目は復習と確認、2週目は実践、3週目は間違ったところだけやり直す………というように進めていくのと、正しい間違いを考えず3周するのでは、まったく違う。
前者は”解法をパターンととして覚え込む”のに対して、後者は”問題集の答えを覚える”ことしかできず、値や組み合わせが変わった問題には歯が立たない。
とにかく量をこなしても、そこで何かしらの経験値を得ることができないと、質にはつながらない。
質か量か、この論争に終止符を打つならば、私の答えはこうだ。

量をこなすことで経験値を得て、その値が質の向上につながる。


そして私がこの”経験値”を得るための目標の1つが「3000の壁」である。

この3000という数字にもちゃんと意味がある。
まず、3000字書くということは難しい。
1つの話題に3000文字かけるよりも、3つを1000でかけ算したほうが、きっと楽だ。
文字数が多くなればなるほど、時間も労力もかかる。
ありきたりな感想や言葉選びでは、文字数が圧倒的に足らない。
だからこそ話題を掘り下げて、それを言語化する。
そこに読者が飽きないようにエッセンスを加えたり、ストーリーを補強することで、最後まで内容の濃さを保つ。
読者に味わってもらえるような文章にするためには、この作業がどうしても必要になってくる。
この生地を引き伸ばす文章術は、短い文章を量産するだけでは身につかない

そして、私にとって3000字の文章というのは、作品としての満足感のラインでもある。
ちなみに、私は人の文章を読むのはあまり得意ではないが、読もうと思ったら基本最後まで読み切るので、よっぽどくどい口調や書き方、無駄に改行がされていない限りは1万字、それ以上でも読む。
このとき、短い文章だと「ここで終わっちゃうのか………」と作品に没入できず読んだ感がない。
特にエッセイは書き手の出来事への心情や思想を見るのが醍醐味なので、そこの掘り下げがほどほどで済まされている文章は、はっきりいって「面白くないな」と感じてしまう。
もちろん、短くても書き手の思いがぎゅっとつまったものは好きなので、ケースバイケースである。

短い文章はどうしても「たりない」がついてくる。
なにより、私の過去の文章を見直していると、そう感じる。
スラスラと言葉を紡げる人がうらやましい。
今の私では意識していても、その境地にたどり着けていない。
他人にとってはどうでもいい話かもしれない。
そうであっても、私のとめどない思考たちは、私を私たらしめるエレメント。
それを「更新しなきゃ」と誰も望んでいない鎖で自分をしばるのは、窮屈な世界に閉じこもるようなもの。
もっと書けたはず、もっと伝えられたはず。
目の前に広がるのは、制限のない世界なのに。
もっとを積み重ねたことで、私のココロに大きな壁ができてしまった。


ただ、私は「3000の壁」ができてしまったことに後悔はしていない。
むしろよかったと思っている。
この壁は、私が「今のままじゃダメなんだ」と自分で自分の「たりない」を認められている、何よりの証拠であるからだ。
人並みの向上心が、宿っていること。
私自身を救おうとする意識が、生きていること。
それが明確な目標として目の前に存在している。

とはいえ壁があることを自覚したところで、3000文字書くということの難しさが変わるわけではない。
だから、文章の作り方を変えて、2つのことをやってみた。

まず「何を書くのか」を決めたら、とりあえずA4の裏紙に書く。
別にノートでも、手帳でも、後で見返せるものなら何でもいい。
そこに大まかな流れと内容、使いたいフレーズといったエレメントをとにかく書き出す。
後で思いついたものがあれば、スキマに埋めればいい。
いらなくなったら、消さずに二重線を引けばいい。
話題から思考を搾り出して、それに見合った単語を引っ張り出して、言葉として抽出する。
まっさらな紙切れを、自分だけの黒い記号で塗りつぶしていく。
それができたら、下書きをもとにドキュメントに淡々と文字を打ち込む。
ときどき言い回しやつなぎで手が止まることはあるが、文章のコンセプトや構成ははっきりしているので、途中で書ききれず息が詰まる、ということはほとんどなくなった。

ちなみに”noteの下書き”ではなく”ドキュメント”に書くのも、実は大事なことだったりする。
noteはあまりにも使いやすすぎる。
ボタン一つでリンクや画像の貼り付けができてしまう。
「これについては過去記事で詳しく書いているのでこちらを見てください」といったことが簡単にできてしまう。
ただ、このやり方に頼らない方がいい。
もとの記事を読んでもらえたとしても、貼られたリンクを踏んでくれる人は限られてしまう。
読者の関心を篩にかけるようなものだ。
記事の核になるものを外部に頼るほど、大半がリンクの向こう側ありきでしか理解することができない文章になってしまう。
「読者には頼るな」
過去に何度も試したた私の経験値が、そう言っている。
いわば一種の”訓練”として、エッセイやショートショートといった”独立したもの”においてはその中で完結するように作ってある。

ドキュメントで書き終わったら、1日は寝かせて、投稿する日までできるだけ見直す。
誤字脱字やしっくりくる表現というのは「書く」に没頭しているとどうしても気づけない。
そこで「書く」と「読む」モードの行ったり来たりで、いらない所はバッサリ切り、たりない所は満足するまで付け足す。
この繰り返しで出来上がった文章のコピーがここに積まれていく。

そしてもう一つは,思考の断片を噛み砕いて、短い文章として発信することである。
はじめに「noteはテキスト投稿以外禁止」とは書いたが、つぶやかないのではなく、つぶやきという機能を使わないだけ。
noteは文章を書くツールとしては使いやすいが、つぶやきたいなら他のツールで十分なので、私はXをそのために使っている。
日常の気づきや私の裏側といった”ちょっとしたこと”を他人がわかるように文字数制限内に収めて、投稿する。
この前とある方が「Xは楽屋裏」という私がうまく言語化できなかったことにドンピシャりなポストをしていたので、この言葉を借りて説明すると「noteはステージで、Xは楽屋裏」といえば使い分ける理由が伝わると思う。

日々のモヤモヤを言語化することで、思考のキャッシュを減らす。
前に感じた「ちょっとしたこと」の掘り下げから文章ができることもある。
1つ1つにポテンシャルが秘められているので、私にとっては思考の墓場でもあり、宝島でもあるのがこのつぶやきの場、というわけだ。


―目の前に立ちはだかる、高い高い壁。
私はこの壁を、いつもいつもよじ登らなければならない。
時間をかけるなら、それに見合う満足感や成果が欲しい。
向上心があるのなら、私はそれをムダにはしたくない。
後で「やってよかった」と思えるほうがいいから。

こうして、私はまた次の大きな壁にぶち当たるのであった。







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かぐや
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