銃無し西部劇(『イニシェリン島の精霊』に寄せる箇条書)
◎ジョン・フォードとジョン・ウェイン。USA西部劇を介して映画史の礎に刻印された2名がともにアイリッシュアメリカンであり、なおかつスコティッシュ&アイリッシュアメリカンとして出生し・西暦1964年からアイルランド市民となったジョン・ヒューストンの遺作がジェイムス・ジョイスの『死者たち』であったこと。これらの事実こそマーティン・マクドナー監督映画『イニシェリン島の精霊』に血を通わせている脈のすべてであると言ってよい。私はかねてよりマクドナーを21世紀英語圏映画界において注目に値する殆ど唯一の人物であると見做していたが、公開2年後の現在にようやくこの映画を観終えるに際して、あまりに確かで静かな継承と達成を目撃したかのような感覚ばかりが残り、嘆息を止めようもない。
◎前作『スリー・ビルボード』にてフランシス・マクドーマンドを(その性別にも拘らず)ジョン・ウェイン化させてのけた時点で、マクドナー監督が脱構築西武劇作家としての召命を受け・なおかつその重責を恃んでいることは疑いようもなく確かであった。その5年後の発表となる『イニシェリン島の精霊』では、2人の離島在住中年男性というあまりにもいかさない像を使役し、もはやUSA国土をその舞台に採るまでもなく、西部劇なるものをほとんど透明の域にまで追い込むにいたった。『スリー・ビルボード』の時点では原題 “Three Billboards Outside Ebbing, Missouri” が指すとおり、実在ミズーリ州の地からその養分を得ていた。が、今回のイニシェリン島なるものはそもそも地図上に実在すらしない、おそらくイングランド西部あたりの海域にひっそりと位置しているのであろう架空の島としてのみ存在を許されている。アイルランド本島で内戦が勃発している時期に、今生の憂さを逃れ、戦乱を遠く眺めることが許されているかのような土地。しかし、そこで暮らす人々の様子は武陵桃源めいた超然とは無縁であり、ひたすら下俗と言ってよい些事の数々に浸されている。
◎なぜこのような舞台設定を? という率直な疑問などは、鑑賞後にぼんやりと「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」の地図を眺めるだけで霧消してしまう。そう、アイルランドの位置は、北太平洋を行き止まりとして「西欧」なるもの(とくにカトリック文化圏)を画定した場合、陸が尽き果てた西の端にある。「西部劇」ってそういうことかよ。
〔後略〕