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聴いている (3 May, 2023)


◉Övergivenheten - Soilwork (2022)


『Figure Number Five』を10年ぶりくらいに聴き返し、こんなに良いアルバムだったか……と思わされた流れで昨年リリースの Soilwork 最新作にふれることになった。素晴らしい。彼らが20年もの間変えることがなかった素質とは、実は「ビートとヴォーカルのパートが完全に分離していること」ではないか。新譜の『Is it in your Darkness』を聴くとよくわかる。ズゥァララッ、ズゥァララッと耳に残る刻みのギターと、実に良く練られたヴォーカルのメロディは、実は譜割りのうえでは必然的に噛み合っているわけではない(ボーカルが平坦ながら美しいメロディラインを4分音符単位で引きつつ、例のズゥァララッ、ズゥァララッがひたすら装飾音的に絡むがゆえに忘れがたく耳に残る)。この特性はアルバム中でも出色の名曲『Harvest Spine』にも顕著にあらわれている。あの本当に素晴らしい、北欧人らしいと単純に言ってよいのか判らないがいたずらに天を仰ぐことなく地と平行線上の視野に音符を分配する感覚(北欧人の藝術的感性は、自分以上のものを求めて天を仰いだ瞬間にすべてダメになる。実例としてはニコラス・ウィンディング・レフンの『ヴァルハラ・ライジング』を挙げておけば十分だろう。彼が己の天分をものにしたのは『ドライヴ』から『Only God Forgives』への流れで地との平行感覚を回復して以降である)がこれ以上にないほど美しく活かされたメロディは、実は連打されるベースドラムの上に乗せられる必然性を全く持たない。思えば彼らは『The Living Infinite』(私がCDで持っていたSoilworkの最後のアルバム)の1曲目から既にそのことに自覚的だったのではないか。唄と伴奏どちらが主か従かではなく、双方が各々自身の主(旋律/律動)要素を確固として持ち、その一方で装飾的要素も兼ね備えることで、唄と伴奏が互いを補輯する構え。

 いずれにしろ、「西暦2020年代にもなって何故ヘヴィメタルの新譜など聴かなくてはならないのか」と項垂れている類の人々に対してこの上ない説得力でメタルの技巧が孕みうる表現の豊かさを解明してくれるアルバムだと言いうる。正直なところ、私も Ne Obliviscaris の新譜(今までどおりできることを今までどおりやっているだけの、良質なサウンドプロダクションでさえもがもはや小金持ちの気障な道楽のようにしか響かない、「論外な音楽」の典型のようなアルバム)を聴いた時は同様のことを思ったが、 Soilwork と Katatonia の新譜を聴いて「メタルだからどうこうではない。良い者は良い、ダメな奴はダメというだけの話だ」と考えを持ち直すことができた。


◉Bartok: Complete String Quartets - The Bartok Quartet (1991)


 以前書いたとおり、私が生まれた日から入善コスモホール(富山)で収録されたバルトーク弦楽四重奏。検索したところ、この盤の内容は YouTube やSpotify では聴けない。たかがネットに繋いだだけで世界中の音楽が聴けるなどと思ってはならない。

・弦楽四重奏曲 第1番 作品7 Sz.40 (1908-09)
「浮遊感」などという形容を音楽評で使ってしまうのは文字通り軽薄な態度だが、しかしこの楽曲の「浮遊感」については言及せざるを得ない。すでに作曲から110年以上を閲したことにも因るだろうが、この曲に見出されるような「浮かせ方」は聴き憶えがありすぎるし、自分で使った憶えさえもある(『十三月の鯨』のイントロなど。あれは単に9thとディミニッシュの合わせ技で、元ネタ自体は A Perfect Circle の『Hollow』唄い出しのアルペジオだけども)。ただ、この「浮遊感」の因を単に「無調性」に求めてはならなくて、音程を伴った弦楽器による符の配置自体が複数のリズムを孕んでいるために、当時の西欧人はこの楽曲から受ける不可解さを調性音楽の範囲内でしか処理できなかったのではないか(拒絶や嫌悪の示し方が不当であることによって逆方向の真実が照射される、という20世紀的な典型)。この曲を初めて聴いてからずっと、「自分ならどういうドラムスを入れてリミックスするか」について考えている。その原因はもちろん、ドラムス無しでもこの楽曲自体が(擦・撥)弦の音のみでポリリズミックな構造を備えていると感得したことに拠っている。打楽器無しのバルトーク楽曲をビートミュージックとして聴く、という必要性。

・弦楽四重奏曲 第2番 作品17 Sz.67 (1915-17)
 凄い。私は赤・緑の色盲だが、これを聴いている間ずっと紫色の分厚いカーテンのゆらゆら舞いを眼前に見る心地がする(「共感覚」どうこうではない。というか人間は常に数えられないほど膨大な感覚によって侵襲されつづけている生物なので、色感や音感のごとき2つの感覚を「共」に揺り動かされる体験など誰でも持ちうる以上、そのことに特別な呼称が付される必要もない。もっと言えば、私は「共感覚」という語を考え出した者は単なる軽度の厨二病患者でしかなかったと思う)。とくに 1st mov. Allegro での旋律の絡み合いは、聴いていて美しいのはもちろん、それを提示した作曲家としての落とし前の付け方までもがあまりにも誠実で、感嘆のほかない。美しい旋律を奏でるだけなら誰でもできると思うが、バルトークは「人を酔わせるような音を出してしまった自分自身の後始末」を自覚的に手続きする作曲家なのだ。審美性があるとして、それが及ぼしうる好ましからざる芽を絶えず摘まずにはいられない規範性。つまり本物の素質である。
 ポール・グリフィスの精緻かつ良心的なバルトーク伝記がこの楽曲を評することには、「異常なほど深遠な自己分析の習作のような響きがする」。そういう種の曲を作る必要に迫られてしまう感覚は、同じ30歳代の作曲家としていかにもよくわかる。そしてこの作品が第一次世界大戦の熾烈期に孕まれたことも忘れてはならないだろう。民謡研究家たるバルトークの経歴を踏まえても、この楽曲にはなにか「いやに手早く適切に進められた、自室における遺品整理」のような感覚がある。「戦争が出来してからも創作を進めなければならない者が発現させる自己および作品の状態」を考えるにおいて第一級の教材だし、もちろん我々自身が現に生きている糢糊な「戦(時)中性」をともに占うべき100年遅れの伴走者として、何度となく聞き返す必要がある。

・弦楽四重奏曲 第3番 Sz.85 (1927)
「へっ、なんかいきなり余裕こいてやがら」と最初聴いたときには思った。いわゆるヴァイマル共和制期に作曲されたからだろうか。しかし、どのような組み立てを考えるにしても必ずそこに変化が伴わなくてはならないと不可解な義務が課せられているかのような「3」の数字に、ここまでリラックスした雰囲気の楽曲があてがわれている事実は面白い。もしかすると、いつか私の暫定評価が覆される契機があるとしたら、この点に発するかもしれない。

・弦楽四重奏曲 第4番 Sz.91 (1928)
 同じく「4」という数字に関しても、へんにまとめようとしたり集大成の感慨を持たせようとしたりしていないのが慎ましい。が、前作と同じく西欧壊乱の小康期に作曲されたためか、以前の四重奏曲では希薄だった絢爛の感覚がある。とくに 5th mov. Allegro molto を最初に聴いたときは「うっははははすーげー」と声が漏れてしまった。後の70年間にわたり「オリエンタル」とか「エキゾチック」とかいう形容で持て囃された種の音楽と同質の旋法が使われているように聞こえるが、旋律自体はそうだとしても下で支える和音にまた異なるネタが仕込まれているような気もする。要分析。リズムにしろハーモニーにしろ、常に2つ以上の道具立てで事に臨みがちなバルトークの傾向を忘れないこと。

・弦楽四重奏曲 第5番 Sz.102 (1934)
 最もわかりやすく「リズミック」であり、聴いていてもまったく「ドラムスを入れたい(入れたらどうなるだろう)」という興味を掻き立てない。よって、少なくとも現時点での私にとっては最も参考にならない楽曲。

・弦楽四重奏曲 第6番 Sz.114 (1939)
 手遅れの曲だ。自分が置かれている現在よりも前に進行していた事態とそれが導く未来の2つに痛ましいほど自覚的であるがゆえに、現在時制に弥漫している物事の直接的な由来を看取せざるを得ない者の感覚、が音になっている。1939年作曲という無味乾燥な数字のなんと雄弁なことか。しかしながら、これはフランスやイングランドの同時代人が騒いでいたような「西欧の没落」を真に受けて燥ぐが如き無邪気さとは別様の感覚であるに違いない。平岡正明がバルトークとジャンゴ・ラインハルトを並べて論じたのも至当のことだったろう。もちろん「祖国喪失者」のカテゴリはバルトーク自身には当てはまらないが、彼が若き日に取り憑かれたマジャル的民族性への称揚は、実は「もう帰る家が無くなってしまう」という予期不安の若々しい発露としても解釈しうるのではないか。そして第一次大戦が終わった後には「もう帰る家が無い」の感覚に熟成され、その喪失感の深さがバルトークを多数派の浮薄な白人たちの焦燥からむしろ遠ざけ、第二次大戦後のあらゆる終戦気分(もっぱら勝利者・被解放者側)と同じくなることから防いだように思われる。つまり「お前のとこの家も無くなったのか」という感覚。これと同程度に深い喪失感を求めるなら、それは空爆直後の生存者が瓦礫の山に腰掛けながら何よりも先ず自身の存命を訝る感覚、に最も近いことになる。つまりバルトークの弦楽四重奏=『はだしのゲン』の前奏曲、という可能性……



 さらに Devil Head - Omer Avital (2023?) と Crying in the Rain - Whitesnake (1982) への論評を含んだ全文は、 Integral Verse Patreon channel 有料サポーター特典として限定公開される。


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