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谷川俊太郎の合唱曲にみる現代人の言葉、僕らと太宰治にとっての書くこと

僕は芸術家でも文筆家でもないけれど、自分なりに書くことの意味を大事にしている。
自分に許された数少ない表現の手段として、一瞬の感情を忘れないために書く。

かつて太宰治は、書くということに関して「戒律」という言葉まで使って、義務であると言った。

書けるなら、与ふる状態にある時 頼まれたなら 
必ず書かねばならぬ

記憶参照

だったと思う。

粋な職業作家の吟侍だと思う。書く理由として十分過ぎる。
太宰なんて例にあげて余りに特別過ぎると思われるかもしれない。人が書く理由は千差万別で、当たり前だがそこに貴賤などない。


谷川俊太郎がつい先月、合唱曲にまつわるインタビューでこういっていた。

「うたってないと思うような命もどこかで歌っていると思うんですよね

人間も声を出さずに心の中でうたっているってことがあるじゃないですか」

(下記リンク。メッセージ動画からとても短いが谷川俊太郎のインタビューを観ることができる)


これって、誰もが発信することのできるSNS現代の言葉、その表れ方をかなり的確に言い得ていると思う。
僕は谷川俊太郎という人の作品が好きだけど、必要以上もてはやしたり神格化をするような態度はしたくない。(なんなら彼の余りに都会的過ぎるセンスや労働を知らないであろう裕福な出自に共感できない)
それでも、彼は現代において誰よりも全世代に「とどかせる」ことのできる人だなと思う。

「心の中でうたう」
そう。僕らは言葉にする。賞賛を得るために、楽になるために、あるいは、食うためにうたう。
笑い、怒り、泣きながら、そして嘔吐するようにしてときどきSNSを通して世界に呟く。


素人という言葉は使うとそこに境界ができてしまうように思う。
僕は生業で書いているわけじゃない。けれど、そのことが自分の言葉の価値を落とすとは思わない。

むしろ、路上で聴いた見知らぬミュージシャンの旋律の儚さ、愛する人が皿を洗いながら何気なく口ずさんだメロディの美しさに勝る言葉を僕は知らない。
新聞投稿に挙がってくる不登校の学生の不安に耳を傾けたり、名前も知らないフォロワーさんの140字の日記を読んで涙を流したりもする。




この文章を書こうと思ったのは、あるツイートを読んで心が乱れたからだった。
その人は、芸術活動ではない所の僕らの生活から生まれる言葉を「日記」作品と呼び、稚拙だと批判していた。
(原文は既に見つからないので消えてしまったかもしれないが、いわゆる投稿作品や素人の作品を読んでも『そうですか、でおしまいである』といった書き方がされていたと思う)
善意を持って深読みすれば、きっとブームに消費される文壇を憂いての苦言だろうと理解できる。しかし、それでは批判の方向性が間違っている。
さらに、自己顕示の手段として詩歌を使っているにすぎない、、という主旨のことを言っていてちょっと困ってしまった。その発想こそ感情的で稚拙だと思う。

文壇を脅かすような日常生活の芸術を、「芸術と認めない」という個人の意思があってもいいと思う。それなら、プロとしてその市井の萌芽と対峙して欲しい。そして僕らが畏怖するような素晴らしい作品を作ればいい。退屈だというその素人の作品をこてんぱんにしてしまってほしい。それでこそその人の言う所の芸術作品であるべきだ。

そもそも、芸術と日記を区別する行為自体、了見が狭いと思わざるを得ない。昨今のホームレスに対しての自治体のインフラ整備ではないが、とても貧しい。すべての命はうたうのだという現代の巨人の何気ない言葉が重たく響く。

境界や排除といった権威性を孕んだ芸術は醜い。
このnoteという媒体だからこそ改めて言いたい。現代を生きる全ての生活者は自由に表現をする権利がある。