【美術】英一蝶は島流しされても筆を握る
東京ミッドタウンのサントリー美術館に行ってきました!
今回は江戸時代に活躍した画家・英一蝶(はなぶさ いっちょう、1688-1704)の回顧展が開かれていました。聞きなれない画家ですが、その生涯は三宅島に島流しに遭うなど波乱万丈。作品についても、確かに再評価されるだけの理由は十分でした。今回はそのレポートです。
没後300年記念 英一蝶
―風流才子、浮き世を写す―
2024年9月18日(水)~11月10日(日)
サントリー美術館
英一蝶とは何者か?
教科書でも見たことがない名前です。江戸時代の画家といえば、北斎や広重のような浮世絵師や琳派、狩野派が有名です。この英一蝶とは何者なのでしょうか。
英一蝶は元禄時代前後に、江戸を中心として活躍しました。父親は現在の三重県で伊勢亀山藩主の侍医を務めている身分であり、藩主とともに江戸に下ったとされています。
スキルと教養に秀でたエリート
最初は狩野探幽の弟・安信の門下でアカデミックな教育を受けたそうです。この「アカデミックな教育」というのは、大名の城の大広間を飾るような伝統的な画法のことであり、庶民に愛された浮世絵とは対極的な位置づけです。狩野派は足利家や織田信長、豊臣秀吉、徳川将軍家に仕えてきた権威ある流派ですから、英一蝶は当時、絵師としてはトップクラスの正規の指導を受けた画家ということになるでしょう。つまり、若手絵師のエリートだったことになります。
そして、その作品もまた、江戸狩野派の絵画技術と古典に関する幅広い教養を習得したことを証明するものでした。例えば、初期の『柳燕図』は伝統的な画題であり、濃墨と淡墨の使い分けが巧みです。朝日の降り注ぐ田園で、馬を曳く少年を描いた『朝暾曳馬図』では、なんと水面に少年と馬のシルエットが描かれており、このような光と影の関係に焦点を当てた作品は、この頃までの日本画ではほぼ例がないといいます。『聖人図』では、君主が優れた政治を行った際に現れるとされる麒麟(中国の神話上の動物)を登場させています。『小督局隠棲図』では、『平家物語』に登場する小督局(こごうのつぼね)を題材とし、高倉天皇の寵愛を受けながらも平清盛に疎まれて嵯峨野に隠棲し、頬杖をついて物思いにふけるメランコリックな高貴の女性の姿を描いています。このように、絵師としては技量・教養ともに優れていたことが作品から明らかにされています。
きらめくユーモア
一方で、英一蝶は伝統的な教育を受けつつ、それ以外からも刺激を受けていました。『見返り美人図』で有名な菱川師宣や、大和絵師の岩佐又兵衛に触発されつつ、また、松尾芭蕉に学んで俳諧を嗜むことでユーモアとウィットを培い、絵にも取り入れていったのです。
例えば、『仁王門柱図』では、子供が背伸びして仁王門の柱に落書きをする笑いをそそる場面が描かれています。他にも、『徒然草』第53段の内容を題材としている『徒然草 御室法師図』では、仁和寺の法師が酒の席でウケを狙って、三本足の容器である鼎(かなえ)をかぶって踊ったところ、抜けなくなってしまい、鼎が頭にすっぽりはまったままの法師を、医者が神妙な面持ちで診察するというシュールな光景が描かれています。
新たな風俗画、「英派」
ユーモアや滑稽さすら取り入れる英一蝶の一面は、狩野派の「おカタい」伝統的な画法の教育だけでは身につかなかったものです。このようにして英一蝶は狩野派の枠を超えていき、その先でたどり着いたジャンルは市井の人々を活写した独自の風俗画でした。英一蝶が始めた新しい都市風俗画は「英派」を形成することになり、歌川国芳などの絵師も英一蝶に影響を受けました。
画家の若手エリートかと思えば、堅物ではなくユーモアもわかる、江戸随一の人気絵師。これはなかなかモテたのではないでしょうか。
波乱万丈、島流し
人気絵師から犯罪者へ
とはいえ、その生涯は波乱万丈でした。40代に絵師としては不動の地位と人気を手に入れていた英一蝶は、将軍・徳川綱吉による生類憐みの令を皮肉った流言に関わった容疑で捕らえられ、伊豆諸島の三宅島に流罪となりました。絶頂からの転落。人気絵師は犯罪者となったわけです。
もっとも、研究によると、真犯人はすぐに見つかり、実際は別の件で捕らえられたと考えられています。最も有力な説は、綱吉の生母である桂昌院の縁者に遊女を身請けさせたとして、幕府に目をつけられていたというもの。
実際、英一蝶は酒の席を盛り上げる太鼓持ち(幇間)として吉原に出入りしていたといいます。『吉原風俗図巻』は吉原の現場を知っているからこそ描けた作品です。いつの世の画家も、絵だけで食べていくのは難しかったということでしょうか。
島一蝶
島流しは原則的に無期懲役です。しかし、もう江戸には帰れないのを覚悟しながらも、英一蝶は筆を握り続けます。
江戸には帰れません。それでも、江戸の知人は制作を依頼してきますし、三宅島や近隣の島々にいる島民からも注文が来ます。この頃の英一蝶の作品は「島一蝶」と呼ばれることになります。
江戸向けの作品は、江戸から送られた貴重な紙や絵の具を使用して、華やかな風俗画を描きました。例として、この記事の一番上にある絵『布晒舞図』はまさに島流しの際に描かれた絵であり、紅の着物を着た舞い手は身の丈よりも遥かに長い布を操るというダイナミックな動きが捉えられています。英一蝶の最高傑作と名高い作品だそうです。
他方、島民から受注した作品は神仏画や吉祥画などの信仰に関連したものが大半を占めているといいます。例えば、『毘沙門天図』では、毘沙門天が邪鬼を踏みつけており、邪気を祓う辟邪絵(へきじゃえ)と呼ばれる類のものでした。他にも『七福神図』や『天神図』、中国の厄除けの神を描いた『鐘馗図』など、神社に奉納するものや島民の幸福と魔除けを目的としたものが展示されていました。江戸だけではなく、伊豆諸島でも評判を獲得したのがわかります。
江戸への帰還、英一蝶
奇跡的な帰還
島流しは原則的に無期懲役です。英一蝶も死ぬまで島にいるはずでした。しかし、約10年にわたって続いた島での生活も、運の巡りあわせで終了します。将軍綱吉が死去し、将軍代替わりの恩赦で江戸への帰還が決まったのです。
江戸に戻った英一蝶は、画名を改めます。「英一蝶」の名前はこのときに決まりました。由来は『荘子』にある「胡蝶の夢」で、島での生活や奇跡的な恩赦の知らせが果たして夢なのか現実なのか思い悩む心情が込められているとされています。
とはいえ、英一蝶の代名詞ともいえるジャンルからは離れていくことに。再帰してから英一蝶はこう宣言したのです。「今や此の如き戯画(風俗画)を事とせず」
晩年の到達点
風俗画との決別を宣言した英一蝶は、初期の「おカタい」ジャンルに回帰し、狩野派の伝統的な画題を順守した花鳥画や風景画、古典的な画題に取り組んだ物語絵や故事人物画、不動明王や阿弥陀如来を題材にした仏画などが増えていきました。
とはいえ、風俗画との決別を宣言しても、世間はそれを許しません。人気絵師として、相変わらず風俗画の注文は絶えませんでした。
英一蝶が特別気に入っていた画題に「雨宿り」があるといいます。初期にも複数の『雨宿り図』を描いていますが、晩年にも『雨宿り図屏風』を描いているのです。
写真撮影は禁止だったので、展覧会のチラシの表紙から画像を拝借。ご覧ください。突然の雨に降られて、門の下には年齢や職業がばらばらの人々が集います。本来であれば関わることのなかった老若男女が、にわか雨という「自然の力」によって、同じ空間に身を寄せ合うのです。
市井の人々を活写した風俗画家・英一蝶が気に入った主題であるのも無理はありません。これは人々の生きる社会の縮図です。